電通を創った男たち #110

彼にとって不可能なことはなかった!! 
常に新しい企画を実現させた男 
豊田年郎(2)

  • Shimizu katsuo profile
    清水 勝男

豊田流 ―もう一つの鬼十則


豊田は昭和56年6月、52歳の若さで取締役に就任。その後、昭和58年常務取締役、平成元年専務取締役、平成5年取締役副社長と順調に昇格していった。平成9年退社まで16年間役員を務めた。100余年を超える電通の歴史においても異端児と呼べる存在だった。仕事ぶりはもちろん、交友関係、その言動には誰にも真似できないような独自の流儀があった。

マルチでクリエーティブ、アクティブな根っからの広告プロデューサーであり、その剛腕の振る舞いを煙たく感じた者、あるいは恐れていた者もいたことだろう。しかし私の知る豊田は、とてもシャイで人情家で面倒見の良いお父さんでもあった。私は23歳で彼に出会い、一緒に仕事をする中で豊田は仕事の師であり鬼コーチであり彼のためなら「どんな困難な仕事でもやってやろう」という気持ちになれ、いつでも相談できる頼れる存在であった。

『一冊の本』の中に、電通鬼十則について彼の考え方が語られているので紹介したい。
電通鬼十則は、広告の鬼といわれた吉田秀雄社長の体験から生み出された貴重な教訓だが、この解説の仕様、解釈の仕方でどうとも取れる意味深長な規範である。だが、「取り組んだら放すな、殺されても放すな目的完遂までは…」など、一部分を取り出して電通というところはこういう教育で全社員を締め上げているという言い方をされることもあり、本来とはねじ曲がって形で伝わっている面もある。

吉田秀雄自筆の「鬼十則」


「鬼十則」のすぐれたところは、各々の社員によって十則の読み方は実にさまざまな解釈ができることにある。自分に都合よく解釈すると変幻自在なのだ。
豊田も実に語録の多い男であった。部下に対して心に響く言葉を常に用意し、ことあるごとに言い放つのだ。そんな豊田流鬼十則を紹介する。


【 1 】私は出所、性別、年齢、学歴、女房のことなど、どうでもいい。今日、美しく汗を流す人が好きなのだ。

【 2 】嫌だなぁと思っていることから始めよ。会いたくないなぁと思っている人から会え。嫌なことを後回しにすると得手なことまで雑になる。

【 3 】夜、酒を飲んだ時だけ人事部長になったり、社長になったりするな。ましてや、毎日毎晩、大体同じ顔ぶれと同じ場所で杯を重ねるとその時すっきりしたような錯覚こそすれ、君の明日には何のプラスもないよ。(でも、たまには良いと思う…)

【 4 】二時間のミーティングで一言も発しない人がいる。なぜそんな場所に行くのだ。まして、座長たる者なぜそんな人を集めるのだ。失敗した時の理由は十でも二十でも挙げる才能があるのに、提案を一つもできないのはどうしたことだ。

【 5 】「リーチとフレッケンシー」スポット作業の時はあざやかに計算できて、自分の行動は何のリーチも差ほどのフレッケンシーもない。帰り途くらい、週一度は別の路を通って欲しいな。

【 6 】上を見ても、下を見ても限りはないのだ。世の中にはすごい人が一杯いるし、どうにもならない人も一杯いるものだ。下ばっかりみていると、うぬぼれ人間になってしまうよ。

【 7 】君たちがボランティアで会社に来ているのなら、私は昼食をおごり、心から感謝する。各自が期待しているより多いか少ないかは知らないが、銭を貰っているならそれはプロだ。プロはプロらしく働け。

【 8 】落ち込んだり、気が滅入ったり、何となく乗れなかったり、人間感情の動物なんだからいろいろあるよ。しかし自分の気持ちを締め直す方法はその人には判らない。自分で早目にみつけることだよ。決して、他人のせいにはするなよ。

【 9 】酒を飲むなら、自分よりすぐれた人と飲め、自分より偉い人と飲め。

【10】落ち込んだなぁと思ったら、と自分で気づいた時、周りの人がその前に気づいたりしているものだ。「悪貨は良貨を駆逐する」のたとえ通り、日頃陽気な君が無口になったり口をへの字にしたりすると、下の者が気を遣い出す。それが続くと職場の空気は濁ってしまうものだ。


今、目をつぶるとこれらの語録の一つ一つがさまざまな仕事、プロジェクトの中で体験した想い出が鮮やかに蘇ってくる。吉田秀雄社長の鬼十則も、豊田年郎の語録も君なりの「鬼十則」を作ってみなさいよ。いわば、おのれおのれの「鬼十則」を持つべし。これが両氏の遺訓なのではないだろうか。

(文中敬称略)

◎次回は10月31日に掲載します。

プロフィール

  • Shimizu katsuo profile
    清水 勝男

    1968年立教大学経済学部卒、同年電通入社。25年間営業部門で、日立製作所、アサヒビール、旭化成、リクルート、武田薬品、三和銀行などを担当。その後、世界都市博覧会室長、プロジェクト開発局長、イベントスペース局長、サッカー事業局長を歴任。2002年退社。

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