電通を創った男たち #111

彼にとって不可能なことはなかった!! 

常に新しい企画を実現させた男 

豊田年郎(3)

  • Shimizu katsuo profile
    清水 勝男

「第五の媒体」開発に参画


電通100余年の歴史の中で最も大きな変化は、媒体の変化である。新聞広告中心の印刷媒体からラジオ、テレビという電波媒体が広告活動の主力であった。いわゆるマスコミ4媒体である。今ではインターネットという新メディアが急速にシェアを伸ばし、これほどまで4媒体が衰退するなど、当時予想できた人は果たしてどれ位いただろうか。

広告業界の黄金期と呼ばれる80~90年代、4媒体の存在は錬金術のような存在だった。袖を振ればいくらでもお金が出てくるように感じられた。どんな広告マンも4媒体さえあれば一生楽に生活できると信じていたのである。しかし豊田は違った。「4媒体は化石燃料のようなもの。いずれは枯渇する。これだけに頼っていては電通の未来はない」という危機感を当時から抱いていた。彼は「新しい燃料を開発しなければいけない」として新しいメディアの開発に力を注いでいく。第五の媒体といわれたのが博覧会を主としたイベント産業の台頭である。

豊田は1970年の大阪で開催された日本万国博覧会の催事に携わってから

1975年 沖縄海洋博
1985年 国際科学技術博覧会(つくば万博)
1990年 大阪国際花と緑の博覧会(花博)

と日本で開催されたすべての国際博覧会に参画する機会を与えられ、初めての業務に心血を注いで活躍し見事に成功させ電通の名を高めることに貢献した。その他、折からの市政100年記念の各地の地方博で立案、実施のアドバイスを求められ、それぞれに大成功を収めることができ、電通の収益面でも多大な寄与をした。博覧会の売り上げが、パビリオンの運営費や実施に伴う建設費、展示施設費の設定といったいわゆるスペースデザイン関係の中心であるが、企画やら催事の実施に当たってはマス4媒体との連動が不可欠であり、マス4媒体の売り上げ増にも大きな貢献をした。

1970年大阪万博開会式
 
1985年つくば万博


博覧会を中心としたイベントに携わって得たもの、それは多くの他業種の優秀な人たちとのコミュニケーションができたことである。もちろんクライアントとの友好関係は単に得意先の宣伝担当セクションとのリレーション強化に役立ったばかりでなく、社のトップの人たち、あるいは総務、企画、技術といった日頃あまり接点のない分野の人たちとの真剣な話し合いは新たなるビジネスを創造していった。また、国際博ではBIE(国際博覧会事務局)のトップの方々、あるいは出展参加の国々の方々とのリレーションも大事で、片言の英語で対談したことも多々あった。そんな時情熱と誠意が大事で何とかなるものだと身を以て体験したと語っている。

主催者が「国」である場合、そのトップは省のトップである。地方博の場合も、しかるべき役職の人が主催者となる。電通は「民」であるから、「民」と「省」との行き違いを克服できないと結果はうまくいかないので大変な努力が必要であった。

2005年愛知万博(愛・地球博)に続き今年はイタリア・ミラノで食をテーマにした万国博覧会が開催されている。日本パビリオンでは世界的ブームになっている日本食を中心に、まだ馴染みの薄い日本食材を多数持ち込むなど新しい商材としてPRに努めている。万博は以前に比べるとイベントとしての注目度は下がっているが、それでもなおオリンピックと並び国力を内外にアピールする一大事業の一つであることには間違いない。

1964年東京オリンピック、1970年大阪万博が開催されたように、韓国や中国など多くの先進国の仲間入りを果たすために2つのビッグイベントを相次いで開催したという歴史的な背景がある。特に日本にとって戦後からの復興を知らしめる大切なイベントであった訳である。

豊田の手がけた博覧会事業は4媒体以外の収益事業へとつながり、第5の媒体の初期のものとして確立されたのである。この博覧会事業が派生する形で、オリンピック、サッカーワールドカップなどを中心としたスポーツ事業発展の礎となった。新しい道を切り開いた豊田の功績。ここから学べることは、会社に言われたり与えられたことをやるだけでなく、新しいことをやってやろうという姿勢を持つということではないだろうか。もちろん新しいことをやろうとするには危険もリスクもある。だが失敗を恐れてしまっては目標の達成はできないのだ。

(文中敬称略)

◎次回は11月1日に掲載します。

プロフィール

  • Shimizu katsuo profile
    清水 勝男

    1968年立教大学経済学部卒、同年電通入社。25年間営業部門で、日立製作所、アサヒビール、旭化成、リクルート、武田薬品、三和銀行などを担当。その後、世界都市博覧会室長、プロジェクト開発局長、イベントスペース局長、サッカー事業局長を歴任。2002年退社。

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