電通を創った男たち #112

彼にとって不可能なことはなかった!! 
常に新しい企画を実現させた男 
豊田年郎(4)

  • Shimizu katsuo profile
    清水 勝男

モーレツと呼ばれた男の仕事


モーレツと呼べる豊田の仕事ぶりについて入社5年目、まだ28歳だった豊田の逸話から紐解いてみたい。

1954年鳩山内閣の副総理、外務大臣を歴任した昭和史の重要人物、重光葵(まもる)氏に関する出来事を紹介したい。重光葵氏はかって外務次官のころ、電通創業者光永社長の勅撰議員の報を1935年秋もたらした人物である。重光氏は東大法学部卒、1911年外務省に入り、1932年駐支大使の時、上海の天長節の祝賀会で爆弾テロにより片脚を失った。1945年9月2日、日本代表として東京湾の米艦ミズリー号で降伏文書に調印した人物である。

重光葵

この重光が1957年1月26日午前1時25分、湯河原の別荘で急死した。その時のことである。この重光の湯河原の別荘を守っていたのが、豊田の母堂である豊田きよさんという老婦人である。きよさんはもともと小学校で長く教鞭をとっていた教育家でご主人を亡くしてからも女手一つで2人の遺児を立派に育て上げた気丈な婦人教育者であった。重光家の信任厚くこの別荘邸の留守番役を仰せつかっていた。

重光氏の急死の報は母堂から直ちに年郎氏の東京の自宅に急報された。彼は取るものも取りあえず重光別荘邸に馳せ参じた。東京から湯河原まで深夜タクシーがその頃2500円位だったという。豊田の初任給が1万2000円前後でよくもこの大金を出したものと感心する。

さて、その夜が明けた翌朝2月27日現地の豊田に社から「重光さんのそばを離れるな、ご遺体を護って一緒に上京せよ。葬儀は多分党葬となるであろう。その党葬広告の打ち合わせはこちらの党本部と折衝するから、そちらで話が出たら東京の本社ですでに手配中であるからご一任下さい」と冷静に対処せよ。東京の自民党本部には昨夜来の豊田の活動を子細に説明して、自民党葬の広告を電通扱いとした。この日の自民党葬の広告は朝日、読売、毎日、日経、産経など全国の主要新聞に掲載された(丸善ライブラリー、根本昭二郎著『広告人物語』より)。

そんな彼がキャリアを積み上げていく中で、貫いた精神がある。「クライアントファースト」「まったく新しいことに挑戦する」という2つの熱意だ。常にクライアントのことを思って行動することをモットーとし、独創的なアイデアを生み出し続けた。

ここにも彼らしい逸話がある。彼が担当していた明治製菓での話だ。「明治チョコレート」の広告に、デビュー間もない沢田研二率いる「ザ・タイガース」を抜擢する企画をプレゼンした。グループサウンズ(GS)の一大ブームが起こる前、駆け出しだった彼らのことなど明治製菓の担当者は知るはずもない。だが、豊田は今後ブレークすることを予見して起用を提案。難色を示すクライアントを説得するため、当時の社長をコンサート会場にまで連れて行き説いた。その甲斐あって、ファンの熱狂ぶりを肌で感じた社長はザ・タイガースを広告塔とすることを了承したのだ。

ほどなくGSは若者の間で熱狂的な支持を受けている。いち早くザ・タイガースを広告に起用できた明治製菓は、1968年春商品の包み紙と70円の切手を一口として応募すると、もれなく楽曲収録したピクチャーレコードやポスター、メンバーの写真をプレゼントされるという販売促進キャンペーンを実施。商品の宣伝に大きく寄与した。

「夢のファンタジア」のピクチャーレコード
“おれゴリラ”のCM

また1972年には「おれゴリラ」というキャラクターが登場するCMを制作。「おれ、ゴリラ。おれ社長の代理」といった独特のセリフ回しが流行する。この時もCMに登場するゴリラのキャラクターのぬいぐるみをプレゼントするキャンペーンを実施している。今ではさまざまなプレゼントキャンペーンを目にするが、豊田の試みはそれらの先駆け的なものだ。限定商品をプレゼントするという今までにないプレミアム感覚が受け入れられ大きな話題を集めた。

このように、豊田はどうすれば消費者に喜んでもらえるかということを常に考えている男だった。

(文中敬称略)

◎次回は11月7日に掲載します。

プロフィール

  • Shimizu katsuo profile
    清水 勝男

    1968年立教大学経済学部卒、同年電通入社。25年間営業部門で、日立製作所、アサヒビール、旭化成、リクルート、武田薬品、三和銀行などを担当。その後、世界都市博覧会室長、プロジェクト開発局長、イベントスペース局長、サッカー事業局長を歴任。2002年退社。

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