電通を創った男たち #05

電通電波ビジネス黎明期の牽引者

木原通雄(4)

  • Okada
    岡田 芳郎

「映画はテレビに殺された!」― 米国書店店主の叫び

 

テレビ事情視察のためアメリカに渡った木原通雄は盛んに通信を送った。昭和28(1953)年3月20日付の「電通週報」には早速「スナップ・アメリカ」と題して、その1・2が掲載された。タイトルの下に「ニューヨーク 木原通雄」と、書いた場所と署名がある。まず1を記す。

「ホテルに近い本屋で、五六冊の買い物をした後で、中年をすぎた主人に、テレビを家に持っているかと聞いたら、『あれは、わたしの商売の敵だから、おいていない』と云う。つまり、アメリカ人が誰でも云う、テレビとラジオのために読書力が減ったことを指したわけだが、そのおやじも、今やテレビのレシーバーが全米二千万を抜き、大陸の六割をカバーしている事実には兜をぬいでいた。

ラジオのセットがすでに一億に達しようとし、普通の家庭がめいめいの部屋に一個のレシーバー、車の中にはもちろんのこと、海水浴やピクニックにも持っていくのだから、この数字にふしぎはない。しかし1950年までは赤字だったテレビが,翌51年から黒字に転じ、去年はラジオをはるかに凌ぐ売り上げを示したことは、アメリカ自身にとってもひとつの驚異だったにちがいない。ラジオがアメリカ人の生活の中にもう溶け込んでしまったといえれば、テレビは今やその体にぴったりくっついたといえよう。

その意味では、テレビの新しい興味はまだテレビを視聴できない田舎や、できても会社が一つしかない地方に限られている。七つのステーションを持つニューヨークでは、店頭に飾り立てられたレシーバーをあまり見かけない。そう云えば国際空港からマンハッタンに入る車の中から見たRCAやフィルコの屋外広告はだいぶ色あせていたような気がする。カーネギー小劇場で、ルネ・クレマンの傑作『禁断のゲーム』に感心した後で、立派なテレビの部屋があるので入ってみたら、24インチの素晴らしいセットに見ている者は一人もいなかった。テレビが今やすっかり家庭のものとなり、またそうなったからこそ、あれだけの高いコストをかけてなお大きな利潤を生むことができるのであろう。

もう一つ、テレビの成長を助けたものは、一昨年のサン・フランシスコの平和会議、この時はじめて大陸の西と東をつなぐケーブルが出来上がったが、さらに去年、シカゴにおける大統領候補選出の大会がこれに拍車をかけた。今では全米3万マイルの有線中継が可能となり、それには例のベル電信電話会社が大きな役を買っている。このことではっきりするようにテレビの持つ最大の魅力は政治、経済、文化、あらゆる社会上の重大事件をそのまま、同時に、国民の全感覚に、つたえるところにあろう。そこから新しい社会構造の変化さえも期待されるのであって、ラジオとテレビによってたしかにアメリカの世界は小さくかたまり合ったといえるであろう。

帰り際に、映画はテレビに喰われたそうだがというと、『映画は、テレビに殺されたよ!』と、それが本屋の主人の答えであった。」

この報告で木原はテレビが大都市の家庭に浸透し、それが新しい社会構造を作り出していくことを肌で感じ取っている。その一方テレビというメディアは日常生活用品になってしまい、かえって新鮮な驚きを感じさせる存在ではなくなっているという。結局、ソフトが大事だというのであろう。

ルネ・クレマンの「禁断のゲーム」は、この年日本でも封切られ大きな話題を呼びベストテン1位になった。日本での題名は「禁じられた遊び」である。平和会議や大統領候補選出大会などの社会的なビッグイベントをナマで伝え、それが全国民に同時に受け止められるところにテレビの最大の魅力を見出しているのはさすがだ。そこから新しい社会構造の変化さえ期待できるという。たしかに半世紀経ってみると世界がグンと狭くなったのは確かである。

 

(写真上)「テレビに殺された映画」の見出しが躍る「スナップ・アメリカ」第1回、(下)日本では昭和34年の皇太子ご成婚パレードがテレビ普及の大きな弾みとなった

(文中敬称略)

※次回は11月11日に掲載します。

プロフィール

  • Okada
    岡田 芳郎

    1934年東京都生まれ。早大政経学部卒。56年電通入社。コーポレート・アイデンティティ室長、電通総研常任監査役などを務め、98年退職。著書に『社会と語る企業』(電通)、『観劇のバイブル』(太陽企画出版)、『日本の企画者たち~広告・メディア・コンテンツビジネスの礎を築いた人々~』(宣伝会議)など。

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