電通を創った男たち #113

彼にとって不可能なことはなかった!! 
常に新しい企画を実現させた男 
豊田年郎(5)

  • Shimizu katsuo profile
    清水 勝男

何でも一番になれ


豊田は昭和51年1月東京本社第五連絡局(現在は営業局)への転属を命じられる。当時は12ほど営業局があったが、その中において、第五連絡局の成績は決してかんばしいものではなかった。事実、彼自身が異動前に「あの局はどうしょうもない…」と公然と言い放っていたほどだった。そんな彼の言動を上司が逆手にとり、「お前がダメだと思っているなら、どうにかしろ」と命じ、局長に就任したと豊田は語っている。

ひょんなことから第五連絡局で手腕を振るうことになった豊田。局の立て直しのためにまずしたのが「何でも一番になれ」というスローガンを掲げることだった。もちろん一番の局になるのが最終的な目標だが、「交際費の額でもよい。タクシー代でもよい。何でも一番になれ!」と局内にはっぱをかけたのだ。当たり前だが浪費することを公認したわけではない。その言葉の裏には「無駄に金は使うなよ、でも生きる金ならいくら使ってもいいぞ!」という意味が込められていた。交際費もタクシー代も一番使っているが、それ以上に営業成績が伸びていたら、会社も大きな声では文句は言えないだろうというわけだ。

豊田の教育法は、どんどんやれ、思ったようにやれ、法に触れるようなことは困るがやりたいようにやってみろというものである。あれもダメ、これもダメ、それをやるとこうなるという否定型の指導法もあるようだが、ダメ論は結局やる気を奪うだけのことのように思う。

ダメと言うからやりたくなるのであって「よしやってもいいよ」と言っていると、「まさか」などと言って誰もそんなことはしないものだ。「何をやってもかまわんよ、それで数字が上がるんならいいじゃないか」これは上司としてはなかなかの殺し文句ではないかと豊田は言っている。

もう一つ豊田が口ぐせのように言っていた言葉がある。ずばり「お金をくださいと言える営業マンたれ」というものだ。得意先に行って「とにかくスポットでもいいから出して下さいよ。これだけのお金を頂戴!」と正面きって言える営業マンがどれくらいいるだろうか。「普段ちゃんとやっていればできるよ、できないわけがない」とはっぱをかけていた。実際、自分も部下としてそう言われるとやる気が出て数字も上昇させた。

豊田の仕掛けた仕事の中で特筆すべきものを紹介したい。第五連絡局のメインクライアントであった日立製作所の仕事だ。今では放送開始後30年を超えた長寿番組「日立・世界ふしぎ発見!」を提供しているが、当時の日立には看板となるテレビ番組もなく、松下電器(現パナソニック)の「水戸黄門」、東芝の「日曜劇場」という一社提供の番組を持つライバル会社に比べて立ち後れていた。そこで豊田は、一社提供のオリジナルドラマ「3時間ドラマ」を制作することを企画する。

当時、一社提供で3時間ものオリジナルドラマを制作することは前代未聞のこと。壮大な企画だったが、豊田が常に追い求めた「他人がやってないことをやる!」という精神で勝ち取った。

3時間ドラマとは、1970年代後半に「日立ドラマスペシャル」と銘打って制作された長編大作ドラマ。TBS系列で放送された。TBS、電通、テレビマンユニオン(初回制作会社)と日立宣伝部が企画を練りに練って制作した。放送時間枠を取るのが難しいと思われたが、ほどなく月曜ロードショーの枠に魔法の隙間が見つかる。アメリカとの放送コードを子細に検討すると、3カ月1クールとして12回の契約になっており、月に5回月曜日がある月は最後の週がまるまる空く日があったのだ。ここに3時間ドラマを当てはめることになった。

3時間ドラマの第1作には、「海は甦える」が選ばれた。企画段階で視聴者対象をどのへんに置こうかという話になり、日立の企業イメージを訴えるには『文藝春秋』の読者辺りが適当だろう、さらに「近代日本を築いた人々」というコンセプトが決定。タイミング良く江藤淳さんが『海が甦える』で文藝春秋読者賞を受賞されたこともあり、山本権兵衛を取り上げることになった。放送日は1977年8月29日21時~23時55分。深夜枠のドラマながら28.5%という高視聴率を獲得する。続く第2作の「風が燃えた」の視聴率は34%、第3作の「獅子のごとく」が28.4%と、3時間ドラマは大成功を収める。

日立ドラマスペシャル第1作「海は甦える」
 

また3時間ドラマの中で、いくつかの今までにない取り組みが実行に移された。それが「3分間CM」。長尺なCMをドラマの間に挿入し、クライアントのイメージで戦略、そして看板番組として世に示すことが狙いだ。

もう一つ、3時間ドラマでのエピソードを紹介する。

1979年3月、日立スペシャル3時間ドラマ第4作、ダルマ宰相といわれた高橋是清の一生を描く「熱い嵐」の放送日を間近に控えていた。日立スペシャルは高視聴率を毎回たたき出していたが、前回を上回ることが至上命令であったので、回を重ねるごとにさまざまな知恵をしぼられた。この時、豊田は思いがけない秘策を思いつく。当時の首相は大平正芳氏。大蔵大臣から総理になられた方だから現代のダルマ宰相といえる。「そうだ首相をお招きして試写会をやってみよう」と提案したのだ。実現するまでにはいろいろなことがあったが、2月18日の日曜日、現役の総理としては初めての試写会に出席された。

当日、日立、電通、TBSの3社とも社長が出席、主演の森繁久弥、竹中景子、金子大蔵大臣、長女の森田芳子さんやお孫さんも一緒だった。言うまでもなくパブリシティー効果はバツグンだった。2.26事件で暗殺された高橋是清元宰相(暗殺当時は蔵相)にちなんで放送日も2月26日とした。放送日は雨だったそうで、その影響もあってか「熱い嵐」の視聴率はこのシリーズ最高の38%を記録する。

この試写会の時、大平総理に一つのおみやげを用意した。おみやげ選びは豊田の得意技である。桐の正目の下駄を用意しろと指示した。「いくら何でも下駄でいいのですか?」と周囲からずいぶんと反対されたが、最高級品は1本の桐の木から一足という大変に貴重な下駄なのだ。後日、毎日グラフの「私の休日スタイル」というコーナーに大平さんがお庭であの下駄を履いて登場しており、スタッフ一同大喜びしたそうである。

部下としては、「今までまったく考えられないものを作れ!」と無理なことを言われ続けたが、時代を象徴する物を創り出せたことは、広告マンとして貴重な体験だったと思う。もし豊田が健在なら、モーレツに仕事をするという時代ではないかもしれないが、常に新しい物を創り出すために広告マンは行動するべきだと、言い続けているはずだ。

(文中敬称略)

◎次回は11月8日に掲載します。

プロフィール

  • Shimizu katsuo profile
    清水 勝男

    1968年立教大学経済学部卒、同年電通入社。25年間営業部門で、日立製作所、アサヒビール、旭化成、リクルート、武田薬品、三和銀行などを担当。その後、世界都市博覧会室長、プロジェクト開発局長、イベントスペース局長、サッカー事業局長を歴任。2002年退社。

バックナンバー

関連記事

続きを見る
ページ先頭へ