電通を創った男たち #114

彼にとって不可能なことはなかった!! 
常に新しい企画を実現させた男 
豊田年郎(6)

  • Shimizu katsuo profile
    清水 勝男

「巳己会」―昭和4年生まれの財界、文化人との交流


豊田は、人脈作りの天才でもあった。どのようにして幅広い人脈を築いていったのか。ここにも豊田の流儀があった。皆さんも、仕事を通じて多くの人と出会ったことだろう。豊田はよく言った。「名刺交換で終わっていないか」と。「おまえは名刺をもらった人の人となりを知っているのか?」と。

名刺の数だけなら、1万枚や2万枚もらったとしても意味がないのだ。本当の人間関係が築かれると、人と人とは一生涯の友と言うべき存在になる。大変な仕事をやり遂げた仲間なら戦友と呼べるだろう。ここまで深まった関係は、簡単に壊れるものではない。何年も連絡を取り合っていなくても、ひとたび会えば、一瞬で時の壁を超える。一緒に仕事をすれば、事細かく言わなくても自分の考えを理解し、スムーズに仕事を進められる。ここぞという時に頼める人(カード)を多数持つことは、広告マンにとって大きな武器になる。そしてあらゆる武器をいつでも出せるように、人間関係を築き続けることが求められるのだ。

普段付き合う人についても豊田には信念があった。それは「10歳年上の人と付き合え!」というものだ。自分の糧となる人脈は、毎日同じメンツで固まって飲んでいるようでは作れない。これはという人と出会ったら、そのチャンスを逃さずに、相手の懐に飛び込んでいくべきなのである。『一冊の本』の中で記述されている平山郁夫画伯の話をしてみたい。

つくば万博の国連館は予算も少なく企画が決定したのが遅かった。決まったタイトルは「平和」。そのテーマでどうしても平山画伯クラスの人に絵を描いてほしいというのが国連の希望だった。時にそれは昭和59年の秋、開幕まで半年を切っていた。平山先生クラスの方は3年待っても描いていただけないのが常識。それに豊田にはまったく面識もなかった。ある画商を通じて平山邸に伺った。そして直接祈るような気持ちで主旨、テーマを説明した。

「先生は広島のご出身と伺っております。それに被爆のご体験もおありとか。平和というテーマに先生をおいてお願いする訳には参りません。それに国連の明石事務局長もぜひとおっしゃっています」

「平和ですね。お引き受けしましょう。ところでいつまで…」
「えっ、2カ月ですか…」

しばらくの沈黙を、私はこれでダメといわれたらどうしようと、ひたすら頭を下げつづけていた。

「やりましょう」

この一言がどれだけ嬉しかったか。ほかの言葉が見つからないほど本当に感謝の念でいっぱいだった。翌年1月3日その絵は完成した。60号を2枚、昼と夜の対比になった砂漠を行くラクダの隊商の絵だった。

「平和のキャラバン(東)太陽」
「(西)月」
平山郁夫作「平和のキャラバン(東)太陽」と「(西)月」

 

その後、平山先生とはすっかり親しくさせていただき、この想い出は生涯消えることのないものになったと豊田は語っている。その他、花博の催事を通じて作詞家の阿久悠氏、そしてそのお仲間の作曲家三木たかし氏、都倉俊一氏。プロジェクトを完成、成功裏に終わらせるたびに豊田の人脈は増えていった。

仕事上の付き合いでは確固たる流儀を持っていた豊田。そんな彼が、一転して仕事には一切関係なく作り上げた会がある。昭和4年巳年生まれの人たちを集めた「巳己会(みきかい)」だ。会員は32名。樫尾和雄(カシオ計算代表取締役社長)、米山髙範(コニカミノルタホールディングス名誉顧問)、中村富十郎(歌舞伎俳優)、サトウサンペイ(漫画家)、フランキー堺(俳優)、今井敬(新日本製鐵名誉会長)、椎名武雄(日本アイ・ビー・エム最高顧問)、植村伴次郎(東北新社代表取締役会長)など、そうそうたる顔ぶれだ(肩書は創設当時)。

巳己会というのは、実にユニークな集まりと言える。仲間同士とくに仕事を頼むわけでもなく、ましてや派閥というものでもなかった。互いの立場を忘れ、気兼ねなく交流できる場所だったからだ。私は毎年正月に催された巳己会の新年会で遊びを企画しいろいろな出し物を考案して運営をした。

参加したメンバーの表情はまるで子供のようで「この人たちは、本当に日本を動かす経営者なのか」と感じたほどだ。まったく違う分野の人たちと結び、まとめあげ深い人間関係を築けたのは豊田の手腕と言っても過言ではない。

(文中敬称略)

◎次回は11月14日に掲載します。

プロフィール

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    清水 勝男

    1968年立教大学経済学部卒、同年電通入社。25年間営業部門で、日立製作所、アサヒビール、旭化成、リクルート、武田薬品、三和銀行などを担当。その後、世界都市博覧会室長、プロジェクト開発局長、イベントスペース局長、サッカー事業局長を歴任。2002年退社。

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