電通を創った男たち #115

彼にとって不可能なことはなかった!! 
常に新しい企画を実現させた男 
豊田年郎(7)

  • Shimizu katsuo profile
    清水 勝男

エピローグ・豊田の生涯の趣味「書と絵」


豊田年郎はとても趣味人である。特に才能を発揮し凝っていたのが書と絵だ。思うに彼の趣味は、そのまま彼のクリエーティビティーを磨く手段になっていたと感じる。当たり前だがインターネットなどはないアナログ時代。目に見た物、感じたことを自分の頭の中に取り込むことが求められた。

豊田は旅行先には必ずスケッチブックを持参して、目にした風景をスケッチした。著書『一冊の本』の中には旅行記の一説があり多くの挿絵が描かれている。

上手かどうかは問題ではなく、絵心を養うことが仕事上でもアイデアを形にする力につながっている。また、花を写生した画集も制作して親しい人たちにプレゼントしている。

左:ヨーロッパの旅で描いたスケッチ、 右:『絵筆に託す 花の心 旅の色』


書に関しても豊田泰龍という雅号をもらっているほど熱心な人だった。師事したのは学書院・柳田泰雲という書道家。電通築地ビルの玄関前の社名の看板の書を書いた人物である。

「豊田はその書いた人物は誰なのかを自ら調べ柳田泰雲氏の自宅まで尋ねていったという。そして話をするうちに門下に入り生涯、書を書き数々の展示会で発表していった。
豊田が最期に書いた文字は「笑竹」。風を受けてしならない笑い、折れることなく生きて欲しいという意味を込めて、後輩たちへ贈る言葉として書いた言葉だと思う。

左:柳田泰雲の書による築地本社ビルの看板、 右:豊田泰龍(年郎)竹笑


広告マンの仕事は、イメージを形にする、物を創りあげることだ。仕事では高い創造性が求められる。豊田はそのセンスを絵を描いたり、書を書くことでクリエーティブを自然と磨いた。見て感じたことを自分の中に取り込み、作品として形にする。新しいものを創りあげるという創造力の原点は職場以外での活動、努力の積み重ねがあったのだ。クリエーティブであると言うこと。それは時代が変わっても常に電通マンが持たなくてはならない資質ではなかろうか。

豊富な人脈、すぐれたクリエーティブ力、それらを駆使して営業力につなげる。豊田年郎という男は、これらすべてを持ち合わせた電通のスーパーマンであったと私は思う。豊田の人脈の一人で「博覧会の生き字引」といわれた通称“荒柑”、荒山柑がいる。大阪万博を手がけて以来、沖縄海洋博、宇宙博国際児童年、つくば万博、バンクーバー交通博など主だったナショナルイベントには必ずその姿があった人物である。

昭和61年9月2日享年59歳の若い死であり惜しまれて亡くなった。昭和62年5月25日、豊田は発起人の一人として「荒山柑を偲ぶ会」を行った。偲ぶ会は盛会で数多くの来賓が参加した。その時、豊田は博覧会とは実に多くの人たちと出会うものだと感じいったようである。

『一冊の本』の中でも、この会での出来事を振り返り、「豊さん、あなたの偲ぶ会をやる時はえらいことになるなぁ。変なやり方すると『バーカ!この程度のアイデアしか出ないのか』って、怒って写真の所から飛び出してくるんじゃないかとからかわれたが、事実そんなことになるかもしれない、自分でアイデアを出しておいてくれよ。などと言われたが葬儀や偲ぶ会は死者を改めて、人と人との出会いを強固なものにしてくれるような気もする。それだからこそ盛大にしめやかに故人にふさわしい格を保って営むようにしたい。私の時にもこれだけは忘れてほしくない」と書き残している。

豊田年郎は平成24年9月26日83歳でこの世を去った。私は翌25年2月11日、存命なら84歳の誕生日を迎えた日に「豊さんを偲ぶ会」の企画運営実施のお手伝いをした。場所は東京国際フォーラムのオープンスペース。シンプル、かつ故人にふさわしい格式をもった偲ぶ会ができたと思う。会場では、今井敬、椎名武雄ら巳己会の人たちをはじめ、数多くの人たちが彼を送った。

「豊さんを偲ぶ会」

中央の祭壇に飾られた豊さんの写真が「よくやったな」という声が聞こえた気がした。

(文中敬称略)

〈 完 〉

プロフィール

  • Shimizu katsuo profile
    清水 勝男

    1968年立教大学経済学部卒、同年電通入社。25年間営業部門で、日立製作所、アサヒビール、旭化成、リクルート、武田薬品、三和銀行などを担当。その後、世界都市博覧会室長、プロジェクト開発局長、イベントスペース局長、サッカー事業局長を歴任。2002年退社。

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