電通を創った男たち #116

オリンピックビジネスをつかんだ男 
服部庸一(1)

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    長谷 昭
  • Ebotsuka profile
    海老塚 修

プロローグ・出会い


2013年9月、南米アルゼンチンの首都ブエノスアイレスではIOC総会が開催されていた。深夜にもかかわらず、日本中で多くの人々が地球の裏側からのライブ中継に見入っていた。ジャック・ロゲ会長が開封する。「TOKYO 2020」! 夏季オリンピックそしてパラリンピックの開催都市として東京が選ばれた瞬間である。スペインのマドリード、トルコのイスタンブールを退けての勝利。1964年の東京オリンピックから半世紀、東京はアテネ、ロサンゼルス、ロンドンに次いで数少ない夏季オリンピックを2回目開催するという栄誉を得たのである。

今やオリンピックは電通のビジネスポートフォリオには欠かせない存在であろう。しかし、この広範なビジネスチャンスはやすやすと獲得できたものではない。服部庸一という稀代のプロデューサーの先見性と果敢な行動力の賜物と断言しても過言ではないだろう。服部を知る多くの人々が口をそろえて「服部さんは人と違う」「ハっちゃんは特別だ」と評する。

電通のオリンピックとのかかわりは1964年の東京オリンピックが最初であった。オリンピックは日本で戦後初の国際イベントであり、電通では大会の2年半前の1962年に社内に東京オリンピック対策委員会を設置し、組織委員会への対応を開始した。大会期間中は15名の社員が報道部などに派遣され、国際イベントの運営を担った。このときの経験は後に長野冬季オリンピック、FIFAワールドカップ日韓大会へと繋がっていったわけである。日、英、仏3カ国語版で計10万部発行された記念書籍『東京オリンピックス・オフィシャル・スーベニア』は形に残った社の代表的な成果である。これは98社の広告主の協力を得て完成させたものであった。

テレビ放送はカラー化が進展し、インテルサットを介しての国際衛星中継が実現した。しかし、オリンピックの放送自体はNHKの独占であり、商業放送が入り込む余地はなかった。また、企業協賛も現代のようなスポンサー制度が確立されるはるか以前であり、スポーツマーケティングという概念すら存在しない時代であったのである。『電通80年史』は当時の業務上の苦労をこのように紹介している。「…大会の成功にも大いに寄与したが、但しそれらを具体化するには、アマチュアリズムを堅持する『オリンピック憲章』との調整という難問題を解決しなければならなかった」。

1964年当時、服部はラジオテレビ企画制作局に籍を置き、企画室のプロデューサーとして音楽芸能関連に手腕を発揮していた。民放が放送しないオリンピックに「仕事師」服部が興味を抱くことはなかったようである。国際イベントに際して服部が活躍を見せたのは1970年の大阪万国博覧会、そして1975年の沖縄国際海洋博覧会であるが、これは改めて述べることとする。

それでは、服部庸一の足跡をたどろう。

1928年、服部は東京、大森に生まれた。祖父は満州でロシアを相手に手広く商売をしていた貿易商であった。父は著名な音楽評論家。ニットーレコードの洋楽部長で桐朋学園講師の服部竜太郎である。服部にもこの音楽を愛した父の血が色濃く流れていた。

小中学校は、体が弱かったこともあり、私立明星学園に学んだ。子供の成長にとって「自然豊かな地」が欠かせないという両親の判断で、東京府下三鷹村(現三鷹市)の林に囲まれた井之頭の池近くに創立された校舎に通った。同校の教育理念は「個性尊重」「自主自立」「自由平等」であり、後の服部の人格形成に大きな影響をあたえることとなる。

1945年。終戦の年の4月に服部は上智大学予科に入学。その後経済学科に進むのだが、当時は戦後の大混乱期である。学業も満足に修められる状況ではなかった。そんな折、出会ったのが1年先輩の小池信一だった。誘われるまま、小池がリーダーを務めるハワイアン・バンド「ケープジャスミン(クチナシの花)」に、ギターとボーカルのメンバーとして加わる。

上智大学時代の服部

小池は、米軍キャンプから「特別調達庁芸能審査証」なるお墨付きを取得しており、「ケープジャスミン」も準レギュラーとして、頻繁に米軍キャンプでの演奏を行っていた。ハワイアン・バンドではあったが、主な演目は、スタンダードジャズのナンバーで、ことに服部の美声は評判を呼び、同時期にステージに立っていた旗照夫に匹敵する人気だったと言われる。「電通の初任給が7900円の時代、学生の身でありながら月に10万円近く稼いだ」と、服部自身が後に語っている。

ケープジャスミンのメンバーと。右端が服部、左端が小池

その頃、日比谷の東京宝塚劇場は米軍に接収され、沖縄戦で命を落とした米軍従軍記者の名を冠して、「アーニー・パイル劇場」と名付けられ、米軍人や軍属の娯楽施設となっていた。そのアーニー・パイル劇場で、米国からのタレント招致のスタッフとして活動していた男がいた。ジミー・フクザキ(福崎)である。米軍キャンプで親しくなった服部とジミーは、一生の親友として長い協力関係を持つこととなる。
また、小池は大学卒業後に新東宝に入社したが、その後電通に転職。服部とともに、ラジオ番組やテレビ番組の企画制作に従事した。

1951年、服部は電通に入社した。入社当初は東京本社営業局外国部の配属であったが、程なくして、新設の東京本社ラジオ局ラジオ企画制作課に転じた。同年9月に、わが国初の民間ラジオ局である名古屋の中部日本放送、大阪の新日本放送(現毎日放送)が開局したのを皮切りに、全国各地に相次いでラジオ局が開局する。民間ラジオ局の開局を推進した電通が、ラジオ番組制作向きの社員の確保に力を入れた時期でもあった。

服部がラジオ局配属後最初に手掛けた番組企画は、ラジオ東京(現東京放送)で毎週水曜日に放送された味の素提供の「味の素ミュージックレストラン」であった。
当時、全盛期を迎えたスイングジャズを、ビッグバンドを背景に気鋭のジャズシンガーたちが歌うという公開生番組である。それまで、こうした公演では、専門の司会者がステージ進行を務めるのが通例であった。

ミュージックレストラン

新しい形での音楽番組にしたいとの強い思いを抱いた服部は、多くのジャズマンの中から、司会進行と演奏を兼ねられる逸材として小島正雄に白羽の矢を立てた。小島は復員後、名門ジャズバンドの「ブルーコーツ」のトランペット兼バンドマスターを務めるかたわら、「ダーク・ダックス」、「ボニージャックス」「スリー・グレイセス」らの若手ミュージシャンの育成に力を注いでいた。

当初、小島は服部の要請に戸惑いを見せていた。「ハっちゃん(服部の愛称)の強引なすすめが無ければ、しゃべくりなんて仕事は、一生しなかっただろうと、父はよく言っていました」。電通に入社し、服部の部下でもあった長男の小島恂は、そう語る。

服部の努力もあって、「ミュージックレストラン」は、笈田敏夫、ナンシー梅木、ペギー葉山といった豪華レギュラー陣に加え、ダーク・ダックスたち、若手のデビューの場ともなった。また、アーニー・パイル劇場に招聘されていた本場アメリカのアーティストたちも、ジミーの紹介で番組に多数起用され、番組内容をより一層豊かなものとした。

新機軸を示したこの音楽番組で、日本で初めてのマスター・オブ・セレモニー(MC=司会者)の地位を確立した小島は、その後「シャボン玉ホリデー」「9500万人のポピュラー・リクエスト」「11PM」などにMCで登場し、ソフトな語り口とベストドレッサーの紳士としてお茶の間の人気者となったが1968年、54歳の若さで惜しくも急逝する。

服部は人との出会いを大切にした。「ミュージックレストラン」での小島との出会いが、その後の彼の、音楽分野での幅広い人脈形成につながって行く。その中の一人が「渡辺晋とシックスジョージ」のバンドマスター、渡辺晋である。渡辺は音楽活動のかたわら、妻の美佐と共に渡辺プロダクションを設立。渡辺との出会いが、後の大阪万博に服部がかかわるきっかけとなった。

この当時、一斉に創設された民放ラジオ、テレビ各社では、番組の企画・制作者の確保に追われており、必然的に電通も民放各社から、番組の企画提案要請を受けることとなる。広告主の意向を直接聞くことのできる電通の提案は、営業面での保証もあり、民放各局から大いに歓迎されたのである。

代表的な例がラジオ東京テレビ(現東京放送)で、1955年から1962年まで放映されたドラマシリーズ、「日真名氏飛び出す」である。製薬会社の三共(現第一三共)の賛同を受けた電通が、映画評論家の双葉十三郎と組んで企画したサスペンス・アクション・ドラマで、日本初の一社単独提供番組となった。

当時、5社協定により映画業界から映画俳優のテレビ出演などの協力が得られない中、まだ無名であった久松保夫を主役に起用し、折からの推理小説ブームも手伝って、何と70%前後の高視聴率を記録した。また、作中にドラッグストアを模したセットが組まれ、そこで作中人物が三共の栄養ドリンクを飲むという、生コマーシャルが行われていた。

こうした背景から、電通としてはコマーシャルの制作だけにとどまらず、番組の企画制作も本格的に行うことを目的に1960年東京本社に、翌1961年大阪支社に、それぞれラジオテレビ企画制作局を設立する。服部は同局に副部長として配属された。その服部の元に参集したのが、後に「服部チーム」として活躍する、久松定隆、杉助浩、黒子好信、笠原俊夫、中山健太郎の面々だった。「新しい着想」と「本物」にこだわる服部の元で、彼らは、出光興産提供の「題名の無い音楽会」(1964年~現在)、本田技研工業提供の「すばらしき仲間」(1976~1987年)、「民音アワー」(1965年~)を始め、数々の新企画を実現して行く。「企画は単発でなく、長くレギュラーとして残るものを考える。本物の企画は必ず受け入れられる」という信念の下、服部チームの手掛けた番組はいずれも長期にわたり継続された。

1966年の組織改編に伴い、服部チームは東京本社ラジオテレビ局企画室に異動する。その後、彼らは、大阪万博、日本の祭り、大相撲トーナメント、沖縄海洋博覧会などのプロジェクトに参画し、数々の素晴らしい成果を残すこととなる。「服部さんは、人使いが荒かったけれど、常に新しい事に取り組ませてもらえ、毎日が新鮮だった」「社外の人脈を大切にした」「前向きで楽天家でありながら、他人への気遣いは人一倍だった」「とにかく仕事が大好きで、あまり出世なんて考えてなかったのではないか」「彼の本質は優しさだよ」服部チームのメンバーたちは、こう振り返るのである。

(文中敬称略)

◎次回は12月6日に掲載します。

(文:長谷 昭 監修:海老塚 修)

プロフィール

  • Hase profile
    長谷 昭

    1940年生まれ。慶応義塾大学卒。1962年電通入社。営業企画室次長、電通総研常務、電通国際情報サービス副社長、日本ビジネス・クリエイト社長などを務めた。

  • Ebotsuka profile
    海老塚 修

    1951年生まれ。慶應義塾大学卒。1974年電通入社。ISL室を経て米国法人ISMサッカーに赴任。スポーツマーケティング局企画業推部長、ISL事業部長などを務めた。現在、 慶應義塾大学大学院健康マネジメント研究科教授。日本BS放送番組審議委員。著書に『スポーツマーケティングの世紀』(電通)、『バリュースポーツ』(遊戯社)がある。

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