電通を創った男たち #117

オリンピックビジネスをつかんだ男 
服部庸一(2)

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    長谷 昭
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    海老塚 修

放送の枠を超えて


1970年3月、日本初の国際博覧会が大阪府吹田市の千里丘陵で開催された。「日本万国博覧会(大阪万博)」である。1964年の東京オリンピック以来の国家プロジェクトに、電通はBIE(博覧会国際事務局)へのアプローチ活動を始めとして、万国博協会の広報活動、国内外出展パビリオンの企画製作、公式ガイドブックの作製など、全社挙げての協力体制を組んで臨んでいた。

博覧会会場のメインステージのショーの総合プロデューサーには、渡辺プロダクションの渡辺美佐社長が任命された。ところが渡辺美佐は、協会から提示された当初予算の余りの少なさに驚き、頭を悩ませる。こんな予算額では会期中のプログラムを構成することは不可能だ。そう考える美佐にアドバイスを与えたのが、夫の渡辺晋だった。「電通のハっちゃんに相談してみよう」。

放送という枠を超えた、新たな分野への挑戦がスタートした。渡辺美佐が社長を務める万博協会シアターEXPO70に、服部庸一はエクゼクティブ・プロデューサーとして出向する。部下の黒子好信、笠原俊夫、中山健太郎も続いた。

シアターEXPO70の事務局で

1968年、万博開催の2年前のこと、服部たちは予算不足を補うために会期中の各コンサートにスポンサーの協賛を得ることを思いつく。今では当たり前となっている冠スポンサー方式の導入である。また、テレビ放映による収入増を図ることで、国内のみならず海外からの大物アーティスト招聘に成功する。

オープニングイベントのサミー・デイビス・ジュニアのコンサートに始まり、セルジオ・メンデス、ジルベール・ベコー、フィフス・ディメンション、アンディー・ウィリアムスら、世界のトップスターたちが続々と登場。クロージングコンサートは、マレーネ・デートリッヒが務め、大阪万博の目玉イベントとして、大成功を収めた。

全てが順調に進んだわけではない。数々の成功の陰に、トラブルもいくつかあった。サミー・デイビス・ジュニアのケースでは、当初の説明の手違いもあって、サミー側としては、開会式で挨拶する国賓級での扱いを期待していた。羽田から大阪までの移動にも、専用のチャーター機が提供されるものと思い込んでいた。国内線の搭乗手続きのため待合室で待たされるサミーの表情に、はっきりとした不快感が示され始める。このままでは、キャンセルの恐れもある。

このイベントを担当した中山は語る。「あの時は、本当に冷や汗がでた。全日空が協力してくれ、一般の乗客の方々は後部の座席に座っていただき、前方に20数席分の座席を確保しカーテンで間仕切りをして、まるでチャーター便の様に装って何とか切り抜けた。全日空さんには、今でも心より感謝しています」。
こうして、サミー・デイビス・ジュニアのオープニングショーは、大喝采の中、幕を開けた。

博覧会期間中の海外アーティストの起用には、キョードー東京の創立者、水島達司や嵐田三郎の力強い協力を得ることが出来た。万博を契機に、キョードー東京と電通は、海外タレントの招聘に当たり密接な業務関係を築くこととなる。

当初は3,000万人の入場者を見込んだ大阪万博であったが、蓋を開けてみると、世界から77カ国、4国際機関が参加する大博覧会となり、入場者数も6,421万人にという、当時の万博史上最多の入場者を集めて終了する。

大阪万博で成功を収めた服部チームのイベント・ノウハウは、沖縄国際海洋博覧会(沖縄海洋博)の場でも生かされる。沖縄県の本土復帰記念事業として、1975年7月から半年間開催された海洋博で、服部は黒子と共にイベント・プロデュ-サーとして参画する。

中でも最大のイベントは、全米で人気を博していたトミー・バートレットのウォータースキーショーであった。開会式に出席された当時の皇太子明仁親王、美智子妃殿下の前で披露されたこのウォータースキーショーは、その後3カ月の間、海洋博の呼び物として多くの来場者を魅了した。

時の景気の影響もあって、博覧会でのイベント予算は極度に制限されており、その中、服部と黒子は放送局やプロダクションの協力を得るために奔走する。会場ではウォータースキーショー以外にも、開会式、閉会式でのエンターテイナーショー、ミス・インターナショナル世界大会など、会期中のプログラムを実施し、入場者数350万人の沖縄海洋博の成功に貢献した。

大阪で日本万国博覧会が開催された翌年、「日本の祭り」が誕生する。当時の社会的背景を意識した企画であった。高度経済成長に伴い、若年労働者が地方から大都市東京に集中を続け、不安定な環境下で働くことでさまざまな社会問題が起こっていた。

遠く故郷を離れ、盆や正月にも帰省できない人たちが大勢いる。そんな人たちのために、東京に故郷の本物の祭りを持ってくることが出来れば。地方出身者に東京で故郷に触れるほっとする機会を提供することで、どれ程彼らの心をいやすことが出来るだろうか、と服部は考えた。2年近くをかけてこの構想に取り組んできた服部は、大阪の万博会場のお祭り広場で開催された、形ばかりの「日本の祭り」を見て、「本物の日本の祭り」の実現に強い意欲を燃やした。

杉助浩たちスタッフは、「本物の日本の祭り」の実現に向けて奔走する。実現への最大の課題は会場問題であった。当初、会場予定地として後楽園競輪場が挙げられたが、どうしてもイメージが祭りの雰囲気と一致せず、明治神宮外苑前広場を次の候補とした。これまで、この種のイベントを実施したことのない場所柄であり、その実現には大変な困難が予想されたが、当時の外苑苑長であった伊丹安廣が「日本の祭り」の企画主旨に大いに賛同し、全面的な協力を得ることが出来た。その上、神宮外苑広場での初の花火の打ち上げまで許可されることとなった。

次の課題は、祭りを送り出す側の地方自治体の理解を得ることである。地元の祭りはあくまで地元での開催を原則と考える自治体にとって、他都市に本物の祭りを送り出した前例がなく、どの都市からもすぐには快い返事を得ることが出来なかった。幸いなことにフジサンケイグループが企画主旨に賛意を示し、自治省、文化庁、東京都の後援を得られることとなり、自治省からの協力要請を受けた地方自治体からも、それ以降、積極的な協力を得られることとなった。

1971年8月、「第1回日本の祭り」が開催された。青森の「ねぶた」、秋田の「竿灯」、徳島の「阿波踊り」を始め、全国各地それぞれの郷里が誇る⒖余りの祭りが参加し、来場者の興奮を呼んだ。

第1回日本の祭り

服部の旧知の仲間、マナセプロダクションの曲直瀬社長の好意で、人気の頂点を極めていた坂本九がボランティアでMCを務めた「日本の祭り」は、3日間で30万人の人々を集め、盛況裏に終了した。これ以降、10年余、夏の東京の風物詩として定着したのである。

(文中敬称略)

◎次回は12月12日に掲載します。

(文:長谷 昭 監修:海老塚 修)

プロフィール

  • Hase profile
    長谷 昭

    1940年生まれ。慶応義塾大学卒。1962年電通入社。営業企画室次長、電通総研常務、電通国際情報サービス副社長、日本ビジネス・クリエイト社長などを務めた。

  • Ebotsuka profile
    海老塚 修

    1951年生まれ。慶應義塾大学卒。1974年電通入社。ISL室を経て米国法人ISMサッカーに赴任。スポーツマーケティング局企画業推部長、ISL事業部長などを務めた。現在、 慶應義塾大学大学院健康マネジメント研究科教授。日本BS放送番組審議委員。著書に『スポーツマーケティングの世紀』(電通)、『バリュースポーツ』(遊戯社)がある。

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