電通を創った男たち #118

オリンピックビジネスをつかんだ男 
服部庸一(3)

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    長谷 昭
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    海老塚 修

スポーツビジネスへの進出


大相撲中継は長らくNHKの独占状態が続いていた。この牙城に一角を築くことは、民放各社の悲願でもあった。フジテレビからの打診を受けた服部庸一は、「日本の国技である相撲道の普及によって、全国の青少年の精神力、体力の向上を図る」という趣旨の相撲普及企画を立案し、日本相撲協会に提出した。

服部が提案した試合方式は、負けの許されない一戦必勝のトーナメント方式で、番狂わせも予想される。本場所とは一味もふた味も違う、エキサイティングな試合展開を図るという内容であった。
就任以来、相撲の普及活動に力を注いできた春日野理事長(元横綱栃錦)は、興業収入の全てを相撲普及に充て、各地域に土俵や相撲用具を寄贈し、指導員の派遣費用などにも充てるという服部の提案に賛同する。一方、力士には多額の賞金が提供されるということで、力士たちからも賛意を得ることが出来た。

こうして実現を見たのが、1977年開催の「第1回日本大相撲トーナメント」である。以降、フジサンケイグループの主催事業として、毎年2月に開催。今日まで継続されている。この企画の実現に至るまで、それまで踏み入れたことのなかった、全くの異質な文化である「相撲」と接し、服部の文化に対する視野を大きく広げることとなる。メンバーとしてこの企画に携わり、後にスポーツ文化事業局長として、服部とともにスポーツイベントの開発に当った岡村賢三は、「相撲取りは、ともかくよく飲み、よく食べる。打ち合わせのたびに、恐ろしいほどの交際費が必要だった」と、当時を思い出しながら苦笑する。

第1回日本大相撲トーナメントの優勝決定戦。三重ノ海対北の湖

1978年、沖縄海洋博覧会の仕事を終えた服部は、プランニング室長に任命される。プランニング室は、従来の広告代理業の主要業務であったスペース・ブローカーからの脱皮を目指した4代社長吉田秀雄が、アイデアやプランニングこそがこれからの広告代理業の生命線であるとして、稀代のアイデアマンである小谷正一(当時本社ラジオテレビ局長)に託し、1962年に発足した電通の知的集団であった。しかし、統一性、一貫性のある広告計画を立案するという命題を、全社的に成功させたこの組織も、時代の流れと共に質的変化を要求され、電通が取り組むべき新しいビジネスモデルやコンセプトの開発が強く求められるようになってきた。

1979年、総本社機構として発足した営業開発委員会の発案で、総理府を核とした「国際児童年プロジェクト」がスタートすることになった。その一環として、「ビューティフルネーム・キャンペーン」や「国際児童博覧会」がプランニング室を中心に企画、実施された。服部はこのプロジェクトの一環として、学生時代からの憧れの的であったペリー・コモの招聘に成功したのである。

ペリー・コモと

多くの大物タレントと接してきた服部であったが、この時ばかりは、ひとりのファンとしての若いころからの夢の実現に素直な、しかし深い感動を覚えた。歌手ペリー・コモのもう一つの顔がファーマー(農場経営者)であることを知った服部は、本人との会食の折、土産にとサカタのタネを用意する。当時の服部の部下で、会食の場となった新三浦にサカタのタネを届けに行った荒木陽子は、「あんなにうれしそうな顔をした服部さんを、初めて見た」と懐かしむ。

数多くのプロジェクトを実現させてきた服部であるが、「大相撲トーナメント」を除けば、そのテリトリーは、主に文化・芸能関係にあった。

この年、ニューヨーク支局次長の北野邦彦から営業開発委員会事務局に、プロサッカーチームの「ニューヨーク・コスモス」が、日本や東南アジアツアーを検討し、スポンサー探しで電通に協力要請があったとの情報がもたらされた。

「ニューヨーク・コスモス」は、大手映画会社のワーナー・ブラザースを中核として設立された、北米リーグのサッカーチームで、ドイツのフランツ・ベッケンバウアーやブラジルのペレを始めとするスーパースターを獲得し、世界中から話題を集めたドリームチームであった。

当時、営業開発委員会事務局に所属していた筆者は、この情報を服部に伝えた。サッカーにはなじみの薄い服部であったが、独特の勘で行動に出た。すぐさまニューヨークの北野、開発事業局の西郷隆美、高橋冶之たちとプロジェクトチームを組み、日本サッカー協会にアプローチしたのだ。

当時、サッカー人気に陰りが見え、打開策を探っていたサッカー協会は、この提案に強い関心を示し、日本代表チーム結成の検討に入った。しかし、その後の東京・ニューヨーク間での細部の詰めの作業の煩雑さは、筆舌に尽くし難いものであった。海外とのやり取りで、今日のようなメールもファックスもない時代、迅速な情報交換の手段といえば、テレックスか電話のみである。東京とニューヨークとの時差の関係もあり、電通東京本社とニューヨーク支局との間では、徹夜の摺合せ作業が続いた。幸い、営業担当の田中郁也の尽力により、富士ゼロックスが冠スポンサーに決定。「ニューヨーク・コスモス」来日の運びとなる。

1979年秋、ニューヨーク・コスモス対日本代表による「ゼロックス・スーパー・サッカー」が、小雨にけむる国立競技場で開催される。世界のサッカー界のスーパースターを一目見ようと詰めかけた観客で、スタジアムは超満員。服部も大きく安堵の息をつく。

ゼロックス・スーパー・サッカーはその後毎年、日本代表と世界の有名クラブチームとの試合を重ね、ヨハン・クライフ、ディエゴ・マラドーナらの世界トップクラスのプレーヤーを招聘。日本のサッカーファンに大きな喜びを与えながら1990年まで継続し、後のJリーグ結成に寄与することとなる。

ゼロックス・スーパー・サッカーのポスター

服部にとって、このプロジェクトの成功は、国際スポーツイベントの可能性への強い手ごたえを感じさせるものであったのである。

(文中敬称略)

◎次回は12月13日に掲載します。

(文:長谷 昭 監修:海老塚 修)

プロフィール

  • Hase profile
    長谷 昭

    1940年生まれ。慶応義塾大学卒。1962年電通入社。営業企画室次長、電通総研常務、電通国際情報サービス副社長、日本ビジネス・クリエイト社長などを務めた。

  • Ebotsuka profile
    海老塚 修

    1951年生まれ。慶應義塾大学卒。1974年電通入社。ISL室を経て米国法人ISMサッカーに赴任。スポーツマーケティング局企画業推部長、ISL事業部長などを務めた。現在、 慶應義塾大学大学院健康マネジメント研究科教授。日本BS放送番組審議委員。著書に『スポーツマーケティングの世紀』(電通)、『バリュースポーツ』(遊戯社)がある。

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