電通を創った男たち #119

オリンピックビジネスをつかんだ男 
服部庸一(4)

  • Ebotsuka profile
    海老塚 修
  • Hase profile
    長谷 昭

ロサンゼルスオリンピック争奪戦


ゼロックス・スーパー・サッカーの経験を通じ服部庸一はサッカーの魅力を知った。一方オリンピックはといえば、1972年のミュンヘンでのテロ発生や、1976年のモントリオールでの反アパルトヘイト・ボイコットなどが相次ぎ、開催自体のリスクが高まっていった。そしてそのリスクが頂点に達したのが1980年のモスクワ大会である。

ソ連(当時)のアフガン侵攻に抗議するとしてアメリカ、日本など60カ国が参加を見送ったのだが、実はロサンゼルスはモスクワの対抗馬として立候補し、敗れていた。そして再度挑戦した結果1978年のIOC総会において夏季オリンピックの開催権を得たのである。ロサンゼルスの開催要件は実に驚くべきものだった。アメリカは公的資金援助を一切行わず、全てを民間の運営に委ねるというのだ。
事実、ロサンゼルス市民の何と83%がオリンピックに反対していたのだ。IOC としてはにわかに認めがたい条件だったが、他に候補都市がない状況では「民営化」を受け入れるしか選択肢はなく、数カ月を要した交渉の末1984年のオリンピックはロサンゼルスに正式決定した。

ロサンゼルスのオリンピック招致委員会はこの未経験の大プロジェクトの推進を任せる人材を探していた。そして候補者として浮上したのが旅行業ファースト・トラベルを自ら立ち上げ、全米2位の業績(1位はアメリカン・エクスプレス)にまで会社を発展させたピーター・ユベロスである。ユベロスはカリフォルニアで大成功を収めていたディズニーの方式を参考にしてビジネスモデルを描いたといわれている。オリンピックをスポーツ大会というよりエンターテインメントとしてとらえ、企業や市民、そしてメディアに対してアプローチしようと考えたのである。国家の威信など関係ない。ユベロスのロサンゼルスオリンピック組織委員会(LAOOC)委員長としての活動はビジネス的合理性を追求するものとなった。

1976年のモントリオールオリンピックは、628社にも上る企業からのサポートを得たにもかかわらず大きな赤字を抱える結果となった。そのうち42社はオフィシャルスポンサーとして合計500万ドルの支払いと1200万ドル相当のVIK(無償物品提供)を行った。しかし、これは収入全体(4億3000万ドル)の3%にも満たない額に過ぎなかった。
ユベロスはこんなメリハリのないやり方ではだめだと考えた。そして、カテゴリー(業種)を絞り、独占排他権を前面に出してスポンサーセールスを行うこととした。オリンピックスポンサーシップの希少性を価値に置き換えて企業を口説くことにしたのである。

服部がプランニング室の室長に任命されたのは1978年11月。服部50歳のときである。折しもロサンゼルスオリンピック(ロスオリ)の開催が正式決定した。ビジネスの現場で服部がよく口にするフレーズのひとつが「Something smell(何か臭うぞ)」であった。独特の嗅覚にロスオリはどのような刺激となったのだろうか。

電通ロサンゼルス支局長だった田辺貫之は現地からの情報を数多く提供した一人である。1979年春先、田辺はスポーツに熱心なキヤノンUSAをクライアントに持つDCA(Dentsu Corporation of America)の口添えで、ユベロス委員長が初めて公開の場に姿を現すディナーに出席した。「世界一の広告会社、電通の…」と紹介され、オリンピック民営化の情報収集のきっかけとなったと述懐する。

アメリカ国内のスポーツ専門エージェント各社もLAOOCとユベロスに盛んにアプローチした。その中の1社、IMGの創設者マーク・マコーマックはラジオテレビ局に所属していた間宮聰夫と世界マッチプレー選手権など数々のゴルフトーナメントの実施を通じてたいへん親しい関係にあった。

間宮は、アメリカでスポーツビジネスを手がけた経験のない電通がロスオリ関連事業を取り込むためには、実績が豊富なIMGと組むことが早道だと判断した。マコーマックも請け合ったが、当のユベロスはスポンサー企業との直接交渉を望み、アメリカ国内での業務をエージェント任せにはしなかった。間宮のアプローチは正攻法だったが見込みが外れ、頓挫した。

一方、服部は委員長のユベロスに直接アタックしたいと思った。しかしそれには少なからずステップが必要だ。そこで、まずロサンゼルスに戻っていたジミー・福崎に連絡を取った。「ジミー何とかならないか」。
服部の頼みは断れない。ジミーはユベロスを個人的には知らなかった。しかしLAOOCの評議員にフレッド・ワダ(和田)(2001年没)がいることは承知していた。日系2世の中心的人物だった和田は自ら興した事業で成功し、スポーツ界でも一目も二目も置かれる存在だった。

フレッド・イサム・ワダ(日本名:和田勇)は1907年にワシントン州で生まれた。少年時代から住居を転々とし、さまざまな仕事に就いたが、オークランドでの青果店での仕事ぶりが認められ20代で独立、日系人社会で存在感を増していった。第2次大戦後はロサンゼルスに移り、スーパーマーケットの経営で大成功を収めた。1949年に全米水泳選手権に古橋、橋爪選手らが遠征した折には自宅に宿泊させるなど面倒を見、日本食で腹を満たした選手たちは世界新記録をたたき出すなど大活躍。これがきっかけとなって日本のスポーツ界との結びつきが生まれた。
その後、和田は1964年東京オリンピックの招致委員に任じられ、中南米のオリンピック関係者を私費で訪問するなどして招致成功に貢献する一方で、地元ロサンゼルスでも1976年オリンピック招致委員に選ばれるなど日米両国のスポーツ発展に尽くした。ロサンゼルスが76年、80年と相次いでライバル候補都市に敗れた後、1984年オリンピックの開催権を得たのだが、招致委員会は和田に再度の登場を懇願し、財務関係をみる評議員として迎えた。和田はユベロスを委員長に推した一人である。

ジミーは服部の希望を叶えるためには和田を動かすことが最善だと考えた。1979年の初夏、服部は当時70歳の前半だった和田のロサンゼルスの自宅を訪ねた。年齢は20歳以上も年長だった和田だが、すでにジミーから話を聞いていたこともあり快く服部の頼みを受け入れ、ユベロスへの橋渡しを約束してくれた。

1983年、電通を訪問したユベロス委員長。左から二人目が服部庸一。左端は同行したジミー福崎

服部はユベロスとの初めての会談をどこで行うか思案した。世間から注目を浴び、常に緊張感に包まれているユベロスの懐に飛び込むためにはどうすればよいか。警戒感をゆるめるにはどんな環境が好ましいかだろうか。ユベロスの趣味はゴルフだとわかった。メンバーシップはビバリーヒルズの森に囲まれたBel-Air(ベルエアー)カントリークラブである。ミーティングには最適かもしれないがベルエアーは名門クラブで、セキュリティがしっかりしている。無論アクセスも容易でないが、ジミーに算段してもらえば足を踏み入れることが出来そうだ。

そしてその日がやってきた。1979年6月12日。服部はベルエアー・カントリークラブのクラブハウスにいた。今日はユベロスがプレーをする。

ファースト・インプレッションは予想以上だった。服部自身が「その時以来の信頼関係がその後の交渉に大きく物を言ったと思う」と振り返るように、ユベロスは日本から来た広告プロデューサーの意気込みに共鳴したのだ。電通がLAOOCの日本におけるマーケティングの窓口になるための交渉がスタートした。

(文中敬称略)

◎次回は12月19日に掲載します。

(文:海老塚 修 監修:長谷 昭)

プロフィール

  • Ebotsuka profile
    海老塚 修

    1951年生まれ。慶應義塾大学卒。1974年電通入社。ISL室を経て米国法人ISMサッカーに赴任。スポーツマーケティング局企画業推部長、ISL事業部長などを務めた。現在、 慶應義塾大学大学院健康マネジメント研究科教授。日本BS放送番組審議委員。著書に『スポーツマーケティングの世紀』(電通)、『バリュースポーツ』(遊戯社)がある。

  • Hase profile
    長谷 昭

    1940年生まれ。慶応義塾大学卒。1962年電通入社。営業企画室次長、電通総研常務、電通国際情報サービス副社長、日本ビジネス・クリエイト社長などを務めた。

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