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脳のなかの2匹の金魚No.3

才能ほど壊れやすいものはない。
それはほとんどの場合修復されない。

2015/12/21

アドタイ掲載の「脳のなかの2匹の金魚」を特別公開。

古川裕也氏、初の著作『すべての仕事はクリエイティブディレクションである。』(宣伝会議刊)を記念し、アドタイで好評だったコラム「脳のなかの2匹の金魚」が全6回で復活。これまで出会ったさまざまな名作映画、音楽、小説を手がかりに、広告クリエーティブの仕組みや考え方をつづっていきます。


今年夏。ザ・ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンの伝記映画が日本でも公開された。
封切り時、見損なっていた。仕事が立て込んでいて(このような理由のこのような振る舞いが人間を確実に劣化させる)。

羽田―シャルル・ド・ゴール間の機内で、往路復路1回ずつ見た。あのモニターで見るのはいかがなものかというのと、12時間のうち9時間は眠っているので、基本、飛行機では映画は見ないのだけれど、今回だけは、我慢できなかったのだ。

実は少し泣いた。飛行機の中で。死ぬほど恥ずかしい。

タイトルは、“Love&Mercy”。キャストだけひと工夫施してあって、1960年代のブライアン・ウィルソンを演じるのが、ポール・ダノ(すごく似ている)。80年代をジョン・キューザック(まったく似ていない。そこは捨てて、独特の立ち居振る舞いを表現する能力でキャスティングされている)という風に、ひとりの役に2人のアクターをあてがっている。

簡単に説明しておくと、60年代、『サーフィン・U.S.A.』などのビッグ・ヒットによって絶頂期にあったザ・ビーチ・ボーイズのすべてのクリエーティブ・パートを担っていたブライアン・ウィルソンが、様々な理由により内面を病んでいき、80年代後半にようやくある種のハピネスを回復するまでの、ほぼ100%自伝的な映画だ。

今では誰もが認める圧倒的傑作『ペット・サウンズ』が、まったく売れず、レコード会社、バンドメンバーなど周囲の人たちすべてが不満を抱いたという状況が、彼を精神的に追い込んだ原因のひとつになっている。メンバーの不満の理由には、「全部あいつひとりで決めてるじゃないか」というのも含まれていた。実際その通りで、そのことによって『ペット・サウンズ』は傑作足り得ているのだけれど。

メンバーのひとりは、「なんだよ、海もクルマも出てこないなんて」と言ったという。彼らにしてみれば、今まで通りのサーフィン・サウンドで普通にヒットすればそれでよかったのだ。“音楽的冒険”なんて余計なことしなくたって。

すべてのシーンが、痛切な映画である。
その意味において、特別な映画である。

天才の定義は、僕の知る限りまだ確定していない。この映画では、ブライアン・ウィルソンを天才と呼ぶ現象的根拠として、「音楽があふれるように湧いてきて、その処置の仕方がわからない」様子が描かれている。この仮初めの定義らしきものは、明らかにモーツァルトをリフェランスしている。逆から言えば、音楽の領域では、この現象を持つほんとの天才は、このふたりしか存在しなかったのかもしれない。

「神から与えられるものが多すぎて情報処理ができない」というのは、うんうん言いながらこんなコラムを書いている最中の人間からすれば、憎悪に近い羨望を感じてしまうが、天才本人にしてみればおそらく羨まれるべき状態ではないのだろう。現象を受け止めるだけの精神的キャパシティーのようなものが悲鳴をあげることになるから。モーツァルトの場合は、伝記によると、悪口、セックス、行儀の悪さ等で、てきとうに才能の過剰を発散していたと思われる。彼は決してハッピーな死に方ではなかったけれど。

ブライアン・ウィルソンの場合は、まるで、神さまが仕掛けた極端な実験のようだ。音楽を創ることに関する圧倒的天分×極端に過敏かつ脆弱な感性VS.息子の才能に嫉妬してビーチボーイズのすべてのヒット曲の版権を無断で売ってしまい、その金で遊び暮らしているような父親、しかも幼少期にブライアンの右耳を殴って難聴に追い込んでもいる+統合失調症と勝手に診断し、治療と称してブライアンから自由と金銭を奪い続けた精神科医、ユージン・ランディ(80年代にやっと不適切な治療をしたとして有罪になりブライアンから切り離される)+ヒットするポップソング以外関心も理解も示さず、高度な音楽的情熱に欠けるバンドメンバーたち。     

ブライアンは、途中からどんどん内省的になり、ますます孤独になっていき、やがて精神的に病んでしまう。ほぼ引きこもりのような状態が60年代後半から80年代まで、約20年続いたという。
人一倍センシティブな天才が、父親、仕事仲間、精神科医から次々と被害を蒙る。やがて精神に異常をきたしてしまう。まとめると、なんだかずいぶん陳腐な話だ。こんな凡庸なシノプシス、プロデューサーは誰も買わないだろう。
ヒトは誰しも、みずからの能力によって人生を切り開くべきだ、ということに、とくに最近なっている。さらには、誰しも、「輝く」べきであると。

思えば、これらの言説は、ふたつのことを前提にしている。まず、活躍したり、才能があったり、役に立ったり、輝いたりすることが、人生のあるべき姿であること。もうひとつは、才能というものが、強くたくましく、例外なく人生のいい方に作用することを、100%信じていることである。

どちらも、正確ではない。
残念ながら、事態はそれほど単純ではない。

ブライアン・ウィルソンの場合のように、せっかくの才能を、無理解で悪意に満ちた環境で長期にわたって囲い込むと、その才能は、いとも簡単につぶされてしまう。そんなものなければ、つぶされて、とことんつらい目にあうこともなかったのに。ブライアンの場合、最終的には復活したが、サーフ・ミュージックにとどまらず、『ペット・サウンズ』『スマイル』のような深化した、真の輝きを放つアルバムを創ったことが、まったく現世的な幸福を齎さなかった。『ペット・サウンズ』を聴いたジョン・レノンとポール・マッカトニーが、強いショックを受けてあわてて創った『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が、評価的にも商業的にも、即、歴史に残る傑作とみなされたのと比べると、あまりの結果である。

才能とは、実はとても脆いものである。様々な圧に対して、決して強くない。かと言って、甘やかしてほっておいても簡単にだめになるし。しかも厄介かつ複雑なことに、過酷な環境に置かれることが、結果、よく出る場合と悪く出る場合と両方ある。さらにそれが新しければ新しいほど、発見・認知されるまでに時差がある。

ただ確実にそれを破壊してしまう状態が頑としてある。複数の悪意が重層的継続的に侵犯してくる場合である。これには、どんな才能も太刀打ちできない。痛切なことに、ブライアンがそれを証明する事例になってしまった。

それがなければ、何もできない。けれど、それがあることで、特有の苦悩を背負うことになり、ヒトを不幸に追い込む。

これが、才能を待ち受けるいわば宿命的なオブスタクルだとすると、後天的社会的ともいうべきそれが、このところ存在するように思われる。

テイラー・スウィフトが、最近よく言っているらしい。
「このままだと、音楽を職業にしようとする若い才能が、いなくなってしまうかもしれない。」
世界的なコンテンツ競争をいよいよ制するかもしれないと言われているのが、ネットフリックス。すでに様々な新しさ、競争優位性が述べられているが、いちばん特徴的なのは、やはり、クオリティ・ファーストの姿勢。即ち、創り手ファーストの姿勢だろう。

まず、徹底的なデータ・マーケティングがある。この層を動かすために、こういうストーリーが必要で、その場合、主演はケヴィン・スペイシーでなくてはならない、とか、いうふうに。

データ・マーケティングによって、今回創るべきものを規定してクリエーティブに渡す。あとはいっさい何も注文しないという。「これまで見たことのないもの」というのが、唯一のルール。作家たちに支持される大きな理由のひとつ、センサー・フリーというやつである。ギャラ的にも、ハリウッド並みの配分が確実に保証されているという。つまるところ、クリエーティブにとって魅力的なのは、創作自由度とお金(制作費>ギャラ)である。

土地を持っていてそこに家を立てさせてやる立場が最もえらいわけでは、もはやない。というか、いちばん重要な役割を果たすのは、もともと、中身を考えて創る人たちである。その才能が、なによりも貴重でリスペクトすべきものなのである。もちろんそれは、個人に賦与されるのだけれど、基本みんなのものだ。なぜなら、才能は、それの幸福な発揮によって創られたものが、多くの人を楽しませ、シェアされて初めて意味を持つから。

ネットフリックスの場合、創り手ファーストというより、見る人ファーストであることが、なにより成功の要因になっている。ヒットする確率をビッグ・データによる今までにない徹底的な分析によって高める。つまりクリエーティブが今回考える範囲を極小化する。一見創り手とコンフリクトしているようだが、逆だ。一定レベルヒットしなければ、創り手に次のチャンスは訪れない。それ故、ヒット範囲付きで案件をクリエーティブに渡すことが、結果として、創り手ファーストになるのである。

このからくりは、映像コンテンツのみならず音楽など、コンスタントなヒットを必要とするジャンルで、最近ときどき見かける。現時点で、創る人⇔コンテンツ⇔見る人の関係を、いちばんわかっているのが、ネットフリックスなのだと思う。

英語で、giftを引くと、たいていの辞書では、①「贈り物」のあと、②(天賦の)「才能」、とある。そう。才能はギフトなのである。神さまがたぶん無作為抽出によって与えたところの。ちょっと素敵な英語だ。贈り物には、みんなを楽しませ、幸福にする力がある。もし、それをどこかで発見できたら、損なうように振る舞ってはいけない。絶対にいけない。受け取ったギフトを踏んづけて痛めていいわけがない。

“Yello”“Fix You”などで、すでにメジャーなバンドになっていたコールドプレイ。4枚目のアルバム”Viva la Vida or Death and all friends”制作にあたって、ブライアン・イーノが、プロデュ―スに立った。彼はデヴュー当時から、ときどき音楽制作上のアドヴァイスのようなことをしていたらしい。イーノにしてみれば、確実にそこに存在する才能を何とかしたかったということだと思う。

デモを聴くたびに、よく言ったという。
「わるくないけど、きっと、もっとよくなるよ」
幸いなことに、もはや若い才能に嫉妬する年齢でもなくなった僕たち老人は、後輩たちにそう言い続けるのが仕事のひとつだ。おそらく。

確実にそこに存在している才能が、形になることなく消失してしまうこと。
当初の輝きを失い、やがて消えてしまうこと。
外部環境によって、損なわれてしまうこと。
理解される前に、折れてしまうこと。

これほど、見ていてせつないできごとがあるだろうか。
何も天才に限ったことではない。
1グラムほどのクリエーティビティであっても、同じことだ。

才能が壊れやすく貴重なものであること。それが属人的なものでありながら、実はみんなのものであること。無条件に敬意を払うべきものであること。
これらの感覚が共有されている社会とそうでない社会との差は、想像以上に大きいと思われる。


※本コラムはアドタイに掲載。