電通を創った男たち #120

オリンピックビジネスをつかんだ男 
服部庸一(5)

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    海老塚 修
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    長谷 昭

初めて尽くしのセールス活動


当時アフガニスタンには共産主義政党による政権が成立していたが、これに対抗する勢力の蜂起が1979年の春から始まり、ほぼ全土がムジャヒディンと名乗る抵抗運動の支配下に落ちた。そこで共産党政権はソビエト連邦に軍事介入を要請した。ソ連軍が軍事介入に踏み切ったのは1979年12月24日であった。

ピーター・ユベロスとの直談判を経て、服部庸一はプランニング室を中心として営業開発委員会事務局、開発事業局のメンバーを加えたロスオリ・プロジェクトチームを結成した。ビジネスモデルを組み立てるのである。開発事業局では日本体育協会からの打診を受けて選手強化キャンペーン「がんばれ!ニッポン!」が始まっていた。しかし、そのキャンペーンの先にあるモスクワオリンピックに対しての西側諸国の政治的スタンスは冷ややかなものだった。オリンピックを成功させることはソ連の拡張戦略に目をつぶることになり、オリンピックがプロパガンダの舞台になりかねない。1980年の1月、アメリカのカーター大統領は国際社会に対してモスクワオリンピックの参加ボイコットを呼びかけた。これに呼応した日本は4月に大平総理が同調を約束。とうとう5月24日の日本体育協会の臨時理事会で不参加を決議するに至ったのだ。日本選手が出場しないオリンピックは一体日本にとってどんな意味があるのか。電通社内にもオリンピックビジネスに対して懐疑的な意見が出るようになった。

電通とLAOOCのビジネス条件交渉は1979年の後半になって本格化した。しかし、ユベロス側から示された条件は公式マスコット・エンブレムを活用したライセンシングに留まり、スポンサーシップには門戸を開けようとしない。マーチャンダイジングの専門会社であるならともかく、電通は広告会社である。スポンサーセールスが出来なければ意味がないではないか。役員間には否定的な雰囲気が流れた。

1980年2月、服部は事態を打開しようとロサンゼルスに向かった。45日におよぶマラソン交渉が始まったのである。日本では現場の若手社員を中心として、何としてでもオリンピックビジネスに挑戦したいという声が上がった。現場の声は役員の判断に影響を与え、LAOOCが電通の立場を尊重するのなら協力してゆこうという決定がなされた。社の経営判断という後ろ盾を得た服部は勇躍、交渉のテーブルにつくことが出来た。
電通の意思決定は服部の熱意として先方に伝わり、ライセンシング権に加え、公式スポンサー・サプライヤー権はもとより、アニメ化権、入場券取り扱い権まで一括して電通に任されることになった。ここに電通のオリンピックビジネスは船出したのである。電通・LAOOCの独占エージェント契約は3月28日に締結された。

LAOOCと調印。前列中央が服部。右がジミー・福崎
LAOOCと調印。前列中央が服部。右がジミー・福崎

モスクワオリンピックを経て、1980年10月1日、ロサンゼルスオリンピック室が発足した。室長は言うまでもなく服部である。その時点ではマスコット・エンブレムの発表会が10月6日に決まっており、ピーター・ユベロス委員長も来日、日比谷プレスセンターの発表会に出席した。ユベロスはUeberrothと書くが、服部は私たちと話す時でも常に名前の語尾の「th」はきちんと発音していた。服部の英語はブロークンと言えるかもしれないが、相手には誤解なく通じていた。それが外国人にも胸襟を開かせ、個人的な友情を築く第一歩だったと思われる。服部本人もこのように言っている。「自分の意見をどうプレゼンするか。相手の琴線にふれるコミュニケーションをいかにとれるかが勝負だ」。

1981年の1月末になって電通・LAOOCの取引条件が決まった。しかし、それを待たずにスポンサーからの引き合いがあったのである。営業開発委員会事務局にいた長谷昭は学生時代の友人と久々に会った。彼はブラザー工業に勤めていたが、電子タイプライターの海外市場導入に何か起爆剤がほしいと漏らした。そこで、長谷がロサンゼルスオリンピックはどうかと持ち掛けると乗り気になり、数日のうちに「社長がやると言っている。幾ら払えばよいのか」という朗報がもたらされた。通常広告のプロモートにはセールスシートや企画書があり、料金が示されるのが常識である。しかし、ユベロスが進めるマーケティングプログラムには料金表がなかった。業種ごとの市場環境で指値を求め、より好条件の企業からのオファーをとるのである。長谷からの話を聞いた服部は困惑した。経験がない。高すぎればこのディールは成立しないだろうし、安すぎればLAOOCは拒絶するだろう。と言って誰にも相談出来ない。「…万ドル。これで提案してくれ」服部はある丸い数字を長谷に示した。勘である。自分が説得すればユベロスは受け入れてくれるだろう。
幸いなことにブラザーは電通の示した条件を了解してくれた。そしてLAOOCも合意し、公式サプライヤー第1号が決まったのである。

一方アメリカ国内ではアメリカを代表するような企業に対するアプローチが続いていた。コカコーラ、アメリカン・エクスプレス、IBM、マクドナルド、ゼロックスなどがスポンサーとして名乗りを上げた。代表的企業の1社であったイーストマン・コダックとの交渉も早々とスタートしていたが、1981年後半になっても妥結できていなかった。IOCのマーケティング・ディレクターとして長年活躍したマイケル・ペインは著書『OLYMPIC TURN AROUND』の中で、コダックの経理部門の担当者が執拗に値を下げさせようと契約交渉を引き伸ばし続け、結果としてユベロスの「堪忍袋の緒が切れ、電通の服部に金額を示して富士フイルムに対するプロモートを依頼した」とつづっている。結果として、1980年代初頭から新しいVIを世界中で導入し、さらにプロカメラマンに対する攻勢を強めていた富士フイルムは電通の提案を受け、ロサンゼルスオリンピックの公式スポンサー、そして製品は公式フィルムとなった。1981年12月11日が歴史的契約日となった。

ペインも記しているが、コダックの激怒は尋常ではなく、LAOOCは金の亡者だとする猛烈なネガティブ・キャンペーンを展開してきた。またネットワークにも圧力をかけ、富士フイルムのCMを流さないように工作をした。ユベロスは毅然として「How Kodak lost the Olympics」と題したプレスリリースを用意し、ことの顛末を誤解の余地なく公表した。コダックの担当副社長たちは職を失い、富士フイルムのスポンサーシップは無事スタートすることになったのである。

オリンピックとのかかわりを一層効率的にアピールするために当時ドイツですでに実施されていた飛行船によるキャンペーンをアメリカでも出来ないだろうかというアイデアが持ち上がった。服部は英国に本社があるエアシップ・インダストリーズのジョージ・スピロウにコンタクトし、アメリカの東海岸から西海岸に向かってオリンピック開幕まで全米の空をくまなく飛行する計画をまとめ上げた。実際に運行に関してはかねてより親交があった森佳三に任せた。森はロサンゼルスに全日空ハローツアーを開設したばかりだったが、日本での前職時代から電通と関係が深く、服部もいろいろと頼りにしていた。森は「テキサスとサンフランシスコで飛行船が銃撃され、サンフランシスコでは海に落ちるという事故が起きたが何とかプランを全うできた」と当時を振り返る。

開会式の上空に富士フイルムの飛行船が
開会式の上空に富士フイルムの飛行船が

商業化が進展してもオリンピック会場はアドバタイジング・フリーである。看板、バナーなどの掲出はご法度であり、上空すらも認可されない。そこで服部は飛行船の船体に描かれたFUJIFILMのロゴをデザインから外し、緑のカラーリングの中に「WELCOME」文字に置き換えるという奇抜なアイデアをひねり出した。これでオリンピック期間中は警備監視用にLAOOCに活用してもらうことで了解を取り付けたのである。3月に始まり数か月間に及ぶ飛行で既に人々の話題になっていた飛行船の船体の文字が変わっていても、そのイメージの変化に気づく人はほとんどいなかったのである。

(文中敬称略)

◎次回は12月20日に掲載します。

(文:海老塚 修 監修:長谷 昭)

プロフィール

  • Ebotsuka profile
    海老塚 修

    1951年生まれ。慶應義塾大学卒。1974年電通入社。ISL室を経て米国法人ISMサッカーに赴任。スポーツマーケティング局企画業推部長、ISL事業部長などを務めた。現在、 慶應義塾大学大学院健康マネジメント研究科教授。日本BS放送番組審議委員。著書に『スポーツマーケティングの世紀』(電通)、『バリュースポーツ』(遊戯社)がある。

  • Hase profile
    長谷 昭

    1940年生まれ。慶応義塾大学卒。1962年電通入社。営業企画室次長、電通総研常務、電通国際情報サービス副社長、日本ビジネス・クリエイト社長などを務めた。

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