電通を創った男たち #122

オリンピックビジネスをつかんだ男 
服部庸一(7)

  • Ebotsuka profile
    海老塚 修
  • Hase profile
    長谷 昭

ロサンゼルス、そしてメキシコ


ホルスト・ダスラーが目指す電通とのパートナーシップはジョイント・ベンチャーの設立である。セールス・エージェントをはるかに超えた関係構築になる。服部庸一は内心社内の説得はかなり厳しいものになると思った。1981年、電通はかねてよりフレンドリーな関係にあったヤング&ルビカムと合弁事業をやっとスタートさせたばかりで、海外への投資にはまだ消極的だった。ましてや広告事業ではなくてスポーツの権利ビジネスである。

その後も服部はフランス、ドイツ、そしてダスラーが別荘を構え、新会社の所在地に選んだスイスのルツェルンを頻繁に訪問し条件を詰めながら、社内の理解を得るべく奔走した。出張に付き合ってサポートしてくれたのは、ジミー福崎そしてヨネックスのドイツ駐在員だった渋谷哲男である。特に渋谷は車を運転して各所まで服部に同行した。「お疲れだったのか、車の中ではよく寝ていました」と渋谷は当時の服部の激務ぶりを振り返る。服部の熱意は当時の成田取締役、梅垣副社長を動かし、1982年のワールドカップの前にジョイント・ベンチャー ISL Marketing が産声を上げたのである。服部は新会社の副会長に就任した。

翌1983年の2月9日の日経産業新聞に「サッカー4大国際大会 電通が広告独占営業権」という見出しが躍った。電通は新会社の出資者であると同時に、日本企業に対する1986年ワールドカップや82年欧州選手権などの独占セールス・エージェントとしての立ち位置を堅持したのである。この権利はダスラーが目指すオリンピックやその他のスポーツ分野のマーケティングが現実のものになった際も、踏襲されることが合意されたのであった。

83年2月9日付の日経産業新聞
83年2月9日付の日経産業新聞

ISL Marketing はたった5人の社員でスタートした。国籍は全員異なっていた。ルツェルンを選んだのはスイスの中でも外国人の就労に寛容な土地だからである。ダスラーはアディダス・フランスから社長に抜擢したドイツ人のクラウス・ヘンペルらを連れて1983年3月ニューデリーで行われていたIOC総会の場に乗り込んだ。サマランチ会長を始めとするIOCのリーダーたちにオリンピックブランドの価値を再認識させるビデオプレゼンテーションを携えていた。各国NOCに任せているオリンピックの権利関係をIOCに集約し、グローバルなマーケティングを展開して資金導入を図るべきだ。ロスオリで実績を上げつつあった電通と組んだダスラーは説得力に満ちていた。

ロサンゼルスオリンピックの開催は日一日と近づいてきた。ロスオリ室はLAOOCから得た権利を活用し、国内のオリンピック・ムーブメントは着実に高まっていった。開発事業局からロスオリ室に移った星野雅彦は、出張で不在の時が多い服部を支えて多岐にわたるプロジェクトをリードする役割を担っていた。1982年3月にはマーチャンダイジング発表会を築地本社ビル13階ホールで開催。星野はマスコットのサム・ザ・オリンピック・イーグルを日本人が覚えやすい「イーグル・サム」と名付け、LAOOCの了承を得て出願・登録した。

イーグル・サムと
イーグル・サムと

日本オリンピック委員会(JOC)と粘り強い交渉を行い、服部ともどもたびたび頭を下げながらスポンサー・ライセンシーの承認手続きを進めた。1983年2月にJTBほかの旅行会社と「ロス五輪旅行推進協議会」を設立し、ツアーとセットになったオリンピックチケットの販売が動き出した。そして4月にはアニメ「イーグル・サム」がTBSでオンエア開始となった。社内報『社報電通人』の中で、服部は「電通の最も重要な役割は、オリンピックに参加した日本企業が必要とする各種の広告展開を総合的にハンドリングして、企業メリットを創造し、同時に、オリンピック・ムーブメントを演出してゆくことである」と業務のミッションを総括している。電通のオリンピックビジネスはまさに1980年代に服部が予見したような進展を見せたといえるだろう。

1986年のFIFAワールドカップはディエゴ・マラドーナの大活躍で憶えている人も多いだろう。元々はコロンビアが開催国として決まっていた。1974年の決定である。しかしその後コロンビアの経済環境は悪化の一途をたどり、とうとう1982年にワールドカップの開催権を返上するに至ってしまった。代わって手を上げたメキシコに開催が決まったのは1983年の5月20日であった。本番まで3年あまりしか残っていない。服部はアムステルダムのキヤノン・ヨーロッパや富士フイルムに自ら出向き、プレゼンテーションを行った。この2社に加え、日本ビクター、セイコーが公式スポンサーシップに合意してくれた。あとはイベントを無事実施して、スポンサーの期待に応えることである。開催地がメキシコに変更になるやいなや服部はメキシコシティの鈴木に連絡をとった。これからワールドカップの本番までバタバタの作業になる。電通の現地オペレーションをサポートしてくれないか。鈴木は一も二もなく返事した「服部さん、喜んで」。

海外出張中にスタッフと。左は筆者
海外出張中にスタッフと。左は筆者

1984年に電通社内で推進された「経営5カ年計画」の国際化小委員会(座長成田常務)で服部はスポーツビジネスの強化を訴え、翌年に新部署ISL室が設置された。小委員会のメンバーの一人でもあった筆者は新組織に異動し、サッカー担当を命じられた。メキシコは不安だったが鈴木の力添えを得て、電通にとっての初めてのワールドカップは無事、成功裡に終えることが出来た。服部は本番にはほとんど顔を見せず、修了間際にメキシコ入りしたが帰国後にこのような話をした。「これからスポーツマーケティングはすべての面で国際化されてゆく。その時われわれは電通人であって、日本人であって、国際人であることが不可欠な条件ではなかろうか」。

(文中敬称略)

◎次回は12月27日に掲載します。

(文:海老塚 修 監修:長谷 昭)

プロフィール

  • Ebotsuka profile
    海老塚 修

    1951年生まれ。慶應義塾大学卒。1974年電通入社。ISL室を経て米国法人ISMサッカーに赴任。スポーツマーケティング局企画業推部長、ISL事業部長などを務めた。現在、 慶應義塾大学大学院健康マネジメント研究科教授。日本BS放送番組審議委員。著書に『スポーツマーケティングの世紀』(電通)、『バリュースポーツ』(遊戯社)がある。

  • Hase profile
    長谷 昭

    1940年生まれ。慶応義塾大学卒。1962年電通入社。営業企画室次長、電通総研常務、電通国際情報サービス副社長、日本ビジネス・クリエイト社長などを務めた。

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