電通を創った男たち #123

オリンピックビジネスをつかんだ男 
服部庸一(8)

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    海老塚 修
  • Hase profile
    長谷 昭

ソウル、バルセロナそしてその先へ


ダスラーが1983年にサマランチIOC 会長ほかにプレゼンテーションしてから2年、IOCとISLはオリンピックのグローバル・マーケティングプログラム「The Olympic Partner(TOP)」に関する独占エージェン契約を締結した。TOPの担当マネージャ-にはウェスト・ナリーで陸上競技やクリケットを仕事にしていたマイケル・ペインが引き抜かれ、プラニングを開始した。ペインは服部庸一の招きで電通を訪れ、ロサンゼルスオリンピックのNOCアクセスの実態などのヒヤリングを行った。

TOPのプロモートは服部が陣頭指揮をとり、多くの広告主に接触したが、日本企業の韓国マーケットへの進出には何かと障害があり、各社の反応は芳しくない。韓国の政情不安も拍車をかけた。1986年6月に服部はスポーツ文化事業局長だった入江雄三の後を受けてISL室長のままスポ・文局長を兼務することになった。朗報がもたらされたのは大会の1年前、1987年である。松下電器産業(現パナソニック)がビデオカテゴリーでTOPに参加すると表明したのである。ブラザー工業も継続を決めてくれ、服部はほっと胸をなでおろした。

ISL Marketing とISL室はIOCに向き合っているが、スポ・文局はJOCとソウルオリンピック組織員会(SLOOC)に対応しビジネス化を推進するセクションである。SLOOCからは事業局長の金氏が来日し、電通のロサンゼルスオリンピックの実績に耳を傾けた。金局長は他の広告会社へも訪問したが、経験と総合力が評価され8月に電通を日本市場の独占エージェントとする契約が調印された。これにより、公式マークのライセンシングや入場券の取り扱い、そして「SLOOC-JAPAN」と呼ばれた日本国内のみのスポンサーシップ販売が可能になった。服部は金局長がゴルフ好きと見るやたびたびゴルフに誘い、親交を深めていった。腕っぷしが強い金局長には貸しクラブでは合わないと見るや、自腹で硬めの日本製のクラブセットを買い、プレゼントした。服部の人柄にほれ込んだ金局長の理解で電通のソウルオリンピックのオペレーションは随分とスムーズになったのである。

ソウルオリンピックのレセプションで
ソウルオリンピックのレセプションで

頻繁な海外出張。時にかなりディープになる韓国での宴席などが災いしたのか、服部は体調を崩して入院した。はじめは「スイスでホワイトアスパラの食べ過ぎによる痛風だよ」と本人は苦笑していたが、精密検査の結果、動脈瘤が見つかり急遽千葉鴨川の病院に入ったのである。幸い手術は上手くいった。本来ルツェルンで出席するはずだったダスラーとの会議に、服部に代わって参加した入江取締役と筆者が成田に到着したその足で病室を訪ね、出張の報告をすると、普段より穏やかな表情をした服部は「うん、うん」と安心したように聞き役に徹していた。しかし、それから半年も経たない内に盟友ホルスト・ダスラーは51歳の若さで急逝した。1987年4月9日。癌であった。

自分の死期が遠くないことを悟っていたダスラーは後継者としてマーケティングの責任者のレネ・イエギーを抜擢し、アディダスの会長にするつもりであることを服部には明かしていた。そして、本業はともかく、ISLのスポーツビジネスについてはイエギーの相談相手になってやってくれと頼んだという。ISLはソウルオリンピックをもってTOPの第1ラウンド「TOPⅠ」を何とか一区切りつけ、1989年からの4年をパッケージにしたTOPⅡのセールスに乗り出した。1992年にはコロンブスのアメリカ発見から500年を記念してバルセロナオリンピック開催がされる。芸術と情熱の町バルセロナへの世界からの期待は大きく、オリンピックビジネスも飛躍することが確実視されていた。

1988年9月13日の朝日新聞。ソウルオリンピック開幕直前の紙面に「もうかる五輪仕掛人」として服部が登場した。「直接のもうけがなくてもいい」「オリンピックセールスは宮内庁御用達の羊かん屋のようなもの」というユニークな自説を披露。つまり、スポーツの最高峰を仕切ることで、たとえ五輪マーク販売などでは収益が乏しくても、広告代理業本来の業務が雪だるま式に増え、人脈も育ち、結局は大きなメリットにつながる、と力説した。
ロサンゼルスオリンピックを成功させ、多額の余剰金を生み出したピーター・ユベロスは、大会の収支が確定すると、アメリカ大リーグ(MLB)の第6代コミッショナーに就任した。就任にあたりコミッショナー権限の拡大を条件とし、テレビ放映権やライセンシングビジネスの増額などで経営改革を行った。就任4年目には赤字球団は存在しなくなったと発表した。服部はユベロスの改革に手助けをしようと、富士フイルムUSAにMLBのオフィシャルスポンサーを提案し、各地の野球場へ飛行船を周回させるプランとの合わせ技で合意にこぎつけた。

朝日新聞
朝日新聞

役員待遇を経て1989年に取締役、1991年には常務取締役に昇進したが、服部は役員室に納まるのを嫌い、ISL室長の肩書は持ち続けた。1990年にはイタリアでFIFAワールドカップが、1991年には東京で第3回世界陸上が、また同年に英国バーミンガムで開催されたIOC総会において1998年の冬季オリンピックが長野で開催されることが決定した。ISL室はISL事業局に拡充し、服部の国際スポーツビジネスは順調に推移していた。

1992年、バルセロナオリンピックが華やかに開催された。次はFIFA ワールドカップの日本誘致だ。服部の脳裏には目標が鮮やかに映し出されていた。しかし服部が長野オリンピックを観戦することも、2002年のワールドカップの共催決定を知ることもなかったのである。
1992年暮れに不調を訴えて入院。赤羽橋の済生会中央病院であった。翌1993年、一旦は回復して出社もしたが、再び病状が悪化。5月9日帰らぬ人となった。享年64歳。波乱に満ちた一生であった。ロサンゼルスの森佳三は、前日病室の服部からの国際電話を受けた。「今シナトラを聞きながらゆっくりしてるよ」最後の言葉である。

千日谷会堂で執り行われた通夜・葬儀では国の内外から2,000人あまりの参列者が大プロデューサーの死を悼んだ。会場には故人が愛したペリー・コモが歌う「アマ・ポーラ」が流れる。ロサンゼルスから駆けつけたジミー福崎はピーター・ユベロスから預かった弔辞を持参していた。ジミーの翻訳による弔辞の一部を紹介し、締めくくりとしたい。

「貴方の信頼のおける、厚い友情をありがとう。貴方のユーモアのセンス、温かい微笑みをありがとう。…私たちは貴方と一緒に仕事をし、たくさんの楽しい思い出を持つ幸運に恵まれた喜びを持って、貴方をお送りしたいと思います」  ──ピーター・ユベロス

1984年にユベロスと
1984年にユベロスと

(文中敬称略)

〈 完 〉

(文:海老塚 修 監修:長谷 昭)

プロフィール

  • Ebotsuka profile
    海老塚 修

    1951年生まれ。慶應義塾大学卒。1974年電通入社。ISL室を経て米国法人ISMサッカーに赴任。スポーツマーケティング局企画業推部長、ISL事業部長などを務めた。現在、 慶應義塾大学大学院健康マネジメント研究科教授。日本BS放送番組審議委員。著書に『スポーツマーケティングの世紀』(電通)、『バリュースポーツ』(遊戯社)がある。

  • Hase profile
    長谷 昭

    1940年生まれ。慶応義塾大学卒。1962年電通入社。営業企画室次長、電通総研常務、電通国際情報サービス副社長、日本ビジネス・クリエイト社長などを務めた。

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