アクティブラーニング こんなのどうだろう #15

ロシアの学校では、
体育で整列するとき
背が高い人が前だった。

  • 20160526 103
    Nadya Kirillova
    キリーロバ・ナージャ
    株式会社電通 ビジネス・クリエーション・センター 電通総研 Bチームクリエーティブ

電通総研に立ち上がった「アクティブラーニング こんなのどうだろう研究所」。アクティブラーニングについてさまざまな角度から提案を行っていきます。このコラムでは、ラーニングのアクティブ化に活用できそうなメソッド、考え方、人物などを紹介していきます。

 

体育の時間になると、みんなキレイに一列に整列する。なぜなのだろう? 長い間、不思議だった。

ロシアの小学校に入学して初めての体育の時間がやってきた。みんな背の順で一列に並ぶようにと先生が言った。自分はどのへんだろう?とみんな背丈を比べては右左へ分かれて一列をつくる。しばらくの調整を経て私は、一番前になった。そう、一番前。みんなをリードしなければいけない位置。

小1のとき、私はクラスで一番背が高かった。だから、一番前になった。え?後ろの人は前が見えないんじゃないの?と思う方もいるかもしれません。でも、ロシアでは背が高い人が前なのだ。

なぜかって? 特に小学校低学年で背が高いことは、カラダや精神が発達していて、運動神経の良さにつながることが多いというのが理由の一つだと思う。つまり、背が高い児童はみんなの見本になれるのだ。みんなその人を目指して頑張ることになる。それは、能力的にもそうだし、背が高くなりたい!もっと前になりたい!というモチベーションのリマインドにもつながる。

一番が一番前というのはロシアではごく自然な流れだ。「一番前」「一番最初」には特別な憧れがある。その傾向は幼稚園のころから見られた。例えば、ダンスの時間。男女がペアになって踊るが、ここでも一番うまいペアが一番前で踊る。歌の時間、一番うまい人が前で歌う。

前に行くことはとにかく評価されていることを意味していた。後ろの人は前が見えないからこそ悔しくて頑張るという考えである。常に、競争だ。

日本の小学校に転校したとき、私は、いきなり列の一番後ろになった。そう、位置がいきなり逆転した。背が一番高いのになぜ後ろなの?と最初ちょっと不満だった。特に得意科目が体育だった私には理解できなかった。

全然先生からも見えていない、ラジオ体操のときも埋もれている。このシステムは私にとってしばらく不思議だった。でも、キミが前に来るとみんなが見えないでしょう?後ろの人が上達しづらいでしょう?と先生は説明してくれた。

そうか、ここでは、「思いやり」が大事とされていると、はっとさせられた。背が高いのは単なる特徴にすぎない。どちらかというとチーム戦のスポーツが多い印象で、そうすると勝つためにはいかにチームで力を合わせるかがポイントになる。苦手な人をいかにモチベートしてチームの力を上げていくかも視野に入る。誰が一番ということはそれほど重要ではない。なんだか、All for One, One for Allの精神を感じる体育だった。

ただ、日本の体育で一つずっと気になっていることがある。なぜ、体操服にデカく名前を書くのだろうか。クラスメートの名前くらい覚えるだろう。やはり何とも不思議だ。

アメリカの小学校に転校して、楽しみだった体育の時間がやってきた。決まった体操服はなく、みんなおのおのの動きやすい服装に着替えていた。さあ、ここでは何番目だろう? ちょっとわくわくしていたが、何とここには整列するという概念などなかった。

先生の周りに児童があぐらをかいて座る。先生が説明する。ストレッチをするときもそのフォーメーションだ。背の高さや運動神経など関係ない。みんなから体育に対する苦手意識も感じない。高学年になるにつれて体格はだいぶ異なってくる。でも、ここではカラダを動かすことを楽しむのが体育の目的。決して勝負したり、運動神経を自慢する場ではなかった。

最初はこのスタイルに慣れなかったが、「楽しくやるスポーツ」という概念を知ることで勝負以外の楽しみをスポーツに見つけることができた。これはこれで楽しい。

本格的にスポーツをやりたい人は、学校外でクラブに属してサッカーやバスケットボールや野球などを習う。いわゆるリトルリーグだ。そこでは、徹底的に技術やチームプレーを教わる。私も少しの間、バスケットボールのチームに所属していたが、ここは日本の部活にちょっと似たところがあり、指導も本格的だ。

そうやってスポーツを目的や場所に合わせて変えていくことはとても面白かった。勝負をするならいい挑戦相手を選べ!というのはこういうことなのかもしれない。

そういえば、面白いことにフランスの小学校に転校したとき、そこには整列する概念どころか体操服も体育館もなかった。その時期に習うスポーツに合わせた動きやすい服装に着替えて、そのスポーツに合わせた施設にみんなで行く。プール、コート、公園、校庭など。ここでもカラダを動かすことが目的で勝負するようなスポーツは少なかった。

例えば水泳の場合、しっかり泳ぐというよりも水にとにかく慣れることが授業の目的だった。そのため、レーンの代わりにプールには大きな遊具が浮いていて、そこまで泳いでそれで遊ぶというのがその日の体育。別の日はまた、みんなで学校の近くのコートに行ってフライングディスクをした。

言葉のいらない体育を通してみんな打ち解けていき、一緒に遊ぶことでいろんな国からきたクラスメートの仲間意識を育てているようにさえ見えた。確かに、一緒にカラダを動かすとちょっと距離が縮まる。

整列するか、しないか。どの順番に並ぶのか。体育の目的は規律を学ぶことなのか、個人の運動能力の向上か、チーム力か、カラダを動かす気持ちよさか。この4つだけでも、だいぶ体育に対するイメージが変わる気がする。

こうやってみると実は非言語的で受験科目でない体育こそが、いろんな教え方を試すのにぴったりな科目かもしれない。そう考えると、何か21世紀らしいカラダを動かすカタチが見えてきそうだ。とても興味深い。

 

プロフィール

  • 20160526 103
    Nadya Kirillova
    キリーロバ・ナージャ
    株式会社電通 ビジネス・クリエーション・センター 電通総研 Bチームクリエーティブ

    ソ連(当時)、レニングラード生まれ。6カ国で育つ。電通入社後は、様々な領域に取り組むクリエーティブとして活動し、国内外のプロジェクトを幅広く担当。Cannes Lions Titanium Grand Prix、D&AD Black Pencil、文化庁メディア芸術祭大賞など多数受賞。

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