電通を創った男たち #12

電通電波ビジネス黎明期の牽引者

木原通雄(11)

  • Okada
    岡田 芳郎

昭和30年2月3日、木原通雄、突然の死

 

木原通雄は、前述の「電通週報」昭和30(1955)年1月1日号の「ICC東京総会」座談会に司会役を務めたり、相変わらず社内外で強い存在感を発揮し、精力的にこの年も活動していた。2月1日に電通8階ホールで開かれた電通副部長会に出席した吉田社長が会議冒頭で述べた所信のなかにこのような一節がある。

「…また私は電通人たるものは文章を書く上においては常人より優れたものをもたなければならないと思っている。従来とかく何か広告文案を作らなければならんとすると、すぐ宣伝技術部に飛んでゆく。何か文章を書かなければならんとすぐ木原君のところに飛んでゆく。自分で書こうとしない。…」

吉田社長は、電通の社員は全員が優れた文章を書けるようになるべきだとハッパをかけている。木原はその生きた手本だ。木原を目指せ、と具体的に指示する。

だがその2日後の2月3日、木原通雄は突然、死んだ。

「電通週報」2月11日号には下記の記事が載っている。「木原通雄氏(電通ラジオ・テレビ局次長)三日午前二時、ガス事故のため不慮の死をとげた。四十六歳。葬儀は五日午前十一時から正午まで、告別式は正午から午後一時まで青山斎場で神式により執行された。早稲田大学英文科を中退して報知新聞記者となり、国民新聞に入って編集総務、戦後電通に入ってラジオ・テレビ局次長となり、ラジオおよびテレビの創生期において俊敏な才能を伸ばし今後大いに期待されていた。また政治評論家として知られ、その鋭い分析は、明敏な見透しとともに確固たる地位を築いていた。」

2月2日夜、木原は信越放送の野沢社長と築地の蘭亭で歓談していた。9時ごろ店を出て歩きかけたとき木原が、「どうです…もう1軒」と誘った。野沢は、「いや、もうだいぶ飲みすぎたので」と手を振って別れた。それから一人になった木原の行動は誰も知らない。

社報死亡記事

2月3日朝日新聞夕刊3面に「木原通雄氏事故死」という見出しで記事が載った。「三日午前十時半ごろ電通ラジオ・テレビ局次長木原通雄氏(四六)=東京都渋谷区氷川町五二が、東京都新宿区荒木町八、木村方二階六畳の伊庭久弘子さんの部屋で、伊庭さんとともに死んでいたので、木村方から四谷署に届け出た。同署の調べによると、ガスのセンがはずれており、二人とも前夜酔って帰っているので、睡眠中の過失死ではないかとみられている。」

女性は銀座のバーのママであり、木原とは長い交際だった。バーは銀座・みゆき通り文春別館の横を入った路地にあり、彼女は彫の深い顔立ちの近代的女性で、キビキビした明るい態度・物腰で人気を集めていた。木原も彼女も映画好きでその話になると時間を忘れた。ときどき日比谷で一緒に映画を観ることもあった。

木原はその夜、バーに寄って、彼女の住まいに一緒に行ったに違いない。木原の死の直後、新聞、雑誌には「銀座のママが電通幹部と無理心中」とセンセーショナルに書き立てたものがあった。

「アサヒグラフ」に掲載されたお気に入りの1枚

真実は分からない。いずれにせよ木原にとっては思いもよらぬ死であり、さぞや無念であったろう。木原の時代がもうそこに来ていたのだ。間違いなく電通のリーダーの一人になることは誰の目にも明らかだった。いやすでに木原は押しも押されもせぬ電通ラジオ・テレビ局の顔になっていた。

 

 

 

 

(写真上)「過失死と断定」の見出しが躍る2月4日付「朝日新聞」、(下)在りし日の木原。お気に入りの1枚

(文中敬称略)

プロフィール

  • Okada
    岡田 芳郎

    1934年東京都生まれ。早大政経学部卒。56年電通入社。コーポレート・アイデンティティ室長、電通総研常任監査役などを務め、98年退職。著書に『社会と語る企業』(電通)、『観劇のバイブル』(太陽企画出版)、『日本の企画者たち~広告・メディア・コンテンツビジネスの礎を築いた人々~』(宣伝会議)など。

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