電通を創った男たち #13

電通電波ビジネス黎明期の牽引者

木原通雄(12)

  • Okada
    岡田 芳郎

吉田秀雄のラブレター

 

黒枠

2月5日の葬儀会場は鳩山総理大臣、重光外務大臣はじめ多数の知名の士の花輪でうずまり玉串をささげた参列弔問者はひきもきらず1000名近くに及んだ。

死んだと思えぬ 吉田秀雄

月並みな言い草だが、木原の死去はまだ僕の実感になっていない。今の所、あれがアメリカに出張して、社を留守にした時と同じ程度の寂しさを感ずる位だ。無帽のあの男が、ボストンバッグをさげて、ヒョッコリ帰って来る気がしてならない。だから、五日の青山斎場での弔辞も、書く気も読む気もしないままにたってしまったし、社内報の稿を求められても、なかなか筆に乗らない。

それでも三十分か一時間、ただ一人静かに想いをめぐらしておると何時とはなしに、あれへの哀惜と、追憶が,綿々、縷々ととめどもなく続いて、自ら涙がほほをぬらすを覚える。私にとって全くかけがえのない一人の男だったし、一番可愛い一人の弟のようなものでもあったのだし、それだけに、他人に言えぬわがままも色々言い合った仲だが、その木原が、その通雄が、本当にもう帰って来ないのだろうかと思うと、何とも言いようのない寂しさに襲われる。

あれのゴルフも、コケの一念というか、満一年間の毎朝の刻苦練磨のかいあって、どうにか人付き合いが出来るようになったが、手持ちの道具が婦人用だといって、前々からコボしていた。“子供は生意気言うでない”とからかって来たが、腕も上がったし、少々可哀そうだと思っていたので、折も折、二日の夕方、疲れの頭を冷やしにブラリと町に出た時、日東ゴルフで恰好な大人用の道具を買ってきた。社長室に持ってきて振って見たり、拭いて見たり、明日の朝一番に木原を呼んで喜ばしてやろう、その喜ぶ顔を想像して、こちらもほほえみを禁じ得なかったのだが、その三日の朝、とうとう彼は顔を見せなかった。

あれの才能、あれの活動力、あれの勘、あれの社交性、人柄、感受性、何もかも皆惜しい。言って還らぬことだから、その何もかもは思いあきらめもするが三日の朝の喜ぶ顔だけは何といっても心残りでならぬ。

吉田社長と

――吉田秀雄の言葉は木原への愛情に溢れ、心情がそのまま吐露されている。いかに木原を身近に弟のように可愛がっていたかが分かる。人目もはばからず悲しみにくれる姿が吉田の人柄を表す。心打つラブレターだ。だがそれ以上に吉田は途方に暮れていたに違いない。電通のラジオテレビの今後を託したはずの男が急にいなくなったのだ。茫然自失の心が察せられる。

 

(写真上)2月4日に掲載された「黒枠」。“友人総代・吉田秀雄”とある
(下)元旦の社歌授賞式で呵々大笑する吉田秀雄と木原

(文中敬称略)

プロフィール

  • Okada
    岡田 芳郎

    1934年東京都生まれ。早大政経学部卒。56年電通入社。コーポレート・アイデンティティ室長、電通総研常任監査役などを務め、98年退職。著書に『社会と語る企業』(電通)、『観劇のバイブル』(太陽企画出版)、『日本の企画者たち~広告・メディア・コンテンツビジネスの礎を築いた人々~』(宣伝会議)など。

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