イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ― #05

三森重道。いつも明日を見ていた(1)

  • Hamada itsuro pr
    濱田 逸郎

真藤改革はじまる

 

1981年1月、石川島播磨重工業の社長から相談役に退いていた真藤恒氏は、同社の先輩でもある土光敏夫経団連名誉会長(当時)に請われ、初の民間出身者として日本電信電話公社総裁に就任した。初出勤である仕事始めの日、真藤氏は日比谷にあった本社講堂に幹部を集め所信表明を行い、それは電話回線を通じ全国の事業所にも中継された。翌朝、広報部長が総裁室に呼ばれた。所信表明の反響はどうだというのだ。周りの受け止めをかいつまんで報告すると、なぜ全職員の反応を調査しないのだというのだ。しかも明朝までに調べて報告せよという。これまでの総裁と全く肌合いの異なるスタンスに戸惑いながらも、広報部全員で手分けして各地の拠点に電話で取材を行った。期待の声、来たばかりなのに偉そうだという声、プラスマイナスないまぜとなったレポートを翌朝おそるおそる持参すると、真藤氏は大いに満足したようだった。

しかしこれだけでは終わらなかった。

真藤氏は広報部長に活動方針を正し、ユーザーの声をフィードバックするシステムの不在を指摘し、広報戦略の全面的な見直しを指示した。しかも部内だけでの検討は限界があると指摘し、外部の協力を仰いだプロジェクトの検討を命じた。直ちに広報部長に呼ばれたのが三森重道である。当時、電通には今後広告費の拡大が見込まれるにもかかわらず電通の扱いの少ない重点広告主を担当する戦略部隊である「特連」という組織があったが、三森は特連で電電公社の担当営業であった。
三森を信頼していた広報部長は、こうした作業の経験やノウハウは電通が抜きんでていると真藤氏に電通への委託を提案し了承を得た。

三森の営業としての特質の一つは、社内のスタッフの得手不得手を熟知し、チーム編成に巧みなことである。さまざまな作業を通じていつしか三森の周りには三森チームが出来ていた。
その三森チームにより総合広報戦略の構築プロセスの検討が始まった。先行事例を調べたが、原点に立ち返っての総合的な広報戦略の構築事例は存在しなかった。悪戦苦闘の末、18本に及ぶ調査にはじまり基本計画の策定から個別施策の展開におよぶ壮大なプロジェクトの作業フレームを、電電公社の広報部とのミーティングを重ねつつまとめて行った。その結果、広報や広告にとどまらず、あらゆるコミュニケーション領域を対象とし、電電公社の体質そのものに切り込むプロジェクトの骨子がまとまった。2月半ば真藤総裁から電通の田丸社長に直接作業依頼があり、プロジェクトがキックオフする。

電通本社の近くに作業室を設け、電電公社、電通それぞれ10名前後のコアスタッフが連日ミーティングを重ね作業を進めていった。電通側は10名のコアスタッフの他、社内外を通じ55名のスタッフが参加し、リーダーには藤岡和賀夫PR局長が就いた。作業期間中のコピー枚数は40万枚に達した。

折に触れ真藤総裁に報告し指示を受けつつ進めていったプロジェクトは、1年の長きに及び、1981年12月末、田丸社長から真藤総裁に報告書を提出する。この報告書は6分冊に及ぶ膨大なもので、日本で初めての総合的な広報戦略として評価されている。三森はこの報告書作成のマネジメントにとどまらず総論部分を中心に自らも筆を執っている。基本戦略からターゲット別戦略、組織体制の提案に及び、直ちに導入には結びつかなかったもののCI計画もこの中で1章を割かれている。

ポンティアックス
総合的な広報戦略をまとめた「ポンティアックス」

この報告書は三森により「ポンティアックス」と名付けられている。Project Of NTT's Total Information And Communication Strategyの頭文字を取ったものだが、このような言葉遊びの茶目っ気もまた三森の特質の一つである。「社会の心を公社に 公社の心を社会に」をスローガンに掲げたポンティアックスは、施策の筆頭に広聴活動が置かれていることからわかるように、社会とのインタラクティブな対話を通じ、電電公社の体質を社会の変化に柔軟に対応するオープンな体質に変革しようとするものである。他に、社内コミュニケーションの活性化と積極的な地域とのリレーションの構築を強く提案している。この象徴的な施策として導入されたのが「オレンジライン」である。顧客からの問い合わせは期限までに回答することが義務付けられ、答えられないものは上級機関で検討され、最後は総裁を委員長とする委員会で判断される。この活動が引きがねとなり、電電公社の顧客対応が格段に向上した。参議院議員の世耕弘成氏はポンティアックス導入の5年後1986年に入社し、その後広報部に配属されているが、ポンティアックスがわれわれのバイブルだったと筆者に語っている。

このポンティアックスの成功に勢いを得た真藤氏は、これに続き矢継ぎ早に体質改善のプロジェクトを導入した。マネジメントイノベーション活動は社内で流通する紙を減らせというもので、末端の通信部に上部組織から送られる書類を積み上げると以前はエベレストの高さだったものが、富士山の高さに抑えられたという、これにより、現場の指示待ち姿勢をただし、積極的工夫が加えられるようになったと同時に、来るべきOA社会に備えようとするものだ。安全・即応・効率の頭文字をとったASK活動は電電公社版のQC活動である。そして、それらの活動の総まとめが、電電公社からNTTへの経営形態変更に伴うCIであった。

 

電電公社民営化とCI

 

やがて、中曽根政権で三公社の民営化が政治日程に浮上した、電電公社は民営化の正式決定に先立ちいち早く公社内にCIのワーキンググループを設置し、外部コンサルタントの協力を仰ぐ基本方針を固めた。三森は公社内の意向を探り、日本のCI計画で先駆的な業績と独自の知見をもっていた専門コンサルタントのパオスと電通のジョイントでこのコンペに参加することとした。

まだ、CIの実績が少なかった電通にとり、パオスは心強いパートナーである。企業規模もさほど大きくなかったパオスにとっては、32万人の従業員を擁し、新会社発足まで短期間しか残されていない電電公社の民営化CIは単独では手に余ると考えていたところだった。何より真藤改革の伴走者として真藤総裁の方針や電電公社の体質を熟知する三森の存在は欠かせないものだった。こうして、電通+パオスチームは6社による企画コンペを勝ち抜き、パオスの中西元男氏、電通の三森重道をプロデューサーとして1984年5月プロジェクトをスタートさせた。通常、この種の作業は2年前後の期間を要するが、民営化Xデーまで既に1年を切っていた。それから怒涛の日々が始まる。

真藤総裁への報告。右から中西元男、三森重道、二人おいて真藤恒氏
真藤総裁への報告。右から中西元男氏、三森重道、二人おいて真藤恒氏

調査、基本方針の説明、シンボルの絞り込み、導入の準備など、折に触れスタッフは全国11カ所の拠点はもちろん、末端の電話局まで手分けして出張を重ねた。夜の2時3時に電電公社からの問い合わせが作業室のファックスに入り、翌朝までに見解を取りまとめて回答することは日常茶飯事である。夕方からはじまったスタッフミーティングが深更に及ぶことも珍しくない。スタッフミーティングはホワイトボードの前に三森が立ち、メンバーの意見を徴しながら、マーカーでチャートをまとめていくスタイルが多かった。チャートを精緻化し、清書をすれば、そのままクライアントへの提案にまとまるスタイルである。この方式でスタッフの共通認識はまとまり、思考回路も共有できる。このプロジェクトに参加した筆者自身たいへん勉強になった。三森部の部員やチームのメンバーはその後、各分野で活躍しているが、作業プロセスを通じてのOJTが、若手の成長を促したといえるだろう。

シンボルマーク「ダイナミックループ」
シンボルマーク「ダイナミックループ」

CIプロジェクトは何度も難関に直面した。亀倉雄策氏の制作したダイナミックループと呼ばれるシンボルマークに商標未登録の類似マークが存在した問題。電話局を営業所に呼称変更することが、電電公社社内を二分する大問題に発展したことなどが代表である。スタッフとしてありがたかったのは、いかなる問題に直面しようとも、電電公社の基本的信頼をつなぎとめていたことである。その最大の要因は、どのような場合でも、落ち着いて問題解決に向けて真摯に取り組む三森の姿勢が、クライアントの信頼を勝ち得ていたことにある。

新電電スタートを伝える新聞記事(左)と、NNT船出の新聞広告
新電電スタートを伝える新聞記事(左)と、NNT船出の新聞広告

1985年4月1日。日本電信電話公社は民営化により日本電信電話株式会社となり、NTTの名称でスタートを切った。CIはNTTのイメージを大きく変えた。真藤恒氏による企業体質の転換を知らなかった国民は、NTTに関心を持つと、官体質と思っていた電電公社が、いつの間にか利用者優先のサービス企業に変わり始めていることに初めて気付き、NTTに期待を抱き始めたのだ。導入半年後、20代の90.4%、60以上でも65.8%がダイナミックループを認識している。日経新聞の1986年卒業予定者の就職希望アンケートでは、NTTは前年の25位から一躍1位に躍り出た。NTTにとってだけではない、電通にとってもこの成功は大きかった。これを契機に企業の間に時ならぬCIブームが起こった。翌年のアサヒビールのCI、翌々年のJRの民営化CIを手掛けたことで、電通のCI作業が評価され、80年代後半のCIをリードするコンサルタントとして認識されるようになったのだ。それまで、電通がコンサルタントビジネスを提供した事例は多くない。しかし、これ以降コンサルティングビジネスが電通のサービスラインナップにしっかりと組みこまれる転機となったのである。

三森重道は周囲の輿望を担い、この後も次代の電通を担うリーダーとして快進撃を続ける。
総合計画室で社の経営にかかわり、インフォーメーションテクノロジーセンターで、来るべきデジタル時代を迎え撃つ体制を整え、第15営業局長として、官公庁に対する営業の最前線に立ち帰った。
しかしこの時病魔はすでに頑強に見えた肉体をむしばんでいた。2000年2月。三森重道は肝臓がんのため56歳で彼岸に旅立つ。あんなに楽しみにしていた21世紀を見ぬままの早すぎる死だった。

(文中敬称略)


◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。
◎次回は7月17日に掲載します。

プロフィール

  • Hamada itsuro pr
    濱田 逸郎

    1949年生れ。慶應義塾大学経済学部卒。71年電通入社。営業企画局、CI室、CC局、ブランドクリエーションセンター等を経て、05年退社。江戸川大学メディアコミュニケーション学部教授、日本広報学会理事長等を務める。著書に『日本の広報・PR100年』(共著/同文館)、『宣伝費をネット広報にまわせ―戦略的マーケティングのすすめ』(共著/ 時事通信出版局)など。

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