イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ― #02

タフでクールな情熱的法務部長
野崎隆也(1)

  • Okada
    岡田 芳郎

言葉と音

 

野崎隆也と衣枝が出会って間もないころ、そして話らしい話をした最初の時、話したことは、人は言葉によってどこまで、何を人に伝えられるのだろうか、ということだった。二人ともが言葉で伝え得るものには限界がある、という意味で言葉にはあまり信用をおいていなかった。あのころ、電通では朝と夕方に出退勤簿が玄関に並べられ,各自が判を押すようになっていた。二人は一緒に石に刻んだ落款用の印章を買った。隆也の分は「不立文字(ふりゅうもんじ)」の四文字、衣枝は「無言(いわじ)」の二文字、もちろんそれとはっきり読めるわけではないので、この印を出退勤簿に押していた。

同じものを見ようとしている人がいたら、同じ方を向いて一緒に歩いていける人がいたら、一緒に行くのも悪くない、二人ともがそのように考えていた。それで周囲の人々にとってはいささか奇妙なとり合わせのカップルが生まれた。

1966年頃、下宿先で
1966年頃、下宿先で
 
 

二人の結婚式の誓いの言葉の中ほどには、「言葉の世界をのり越えて、新たなるものを見出すべく共に努力いたします」と書いてある。

1987年5月、衣枝は隆也が遠くに旅立つのを見送った。意識がなくなる前日、夜を通して二人で話したことは、相も変わらず、人と人とがコミュニケートできるのはなぜか、ということだった。日頃からの大きな目を、さらに大きくしてキラキラとさせながら隆也は、「病室にじっとしていても、いろいろなものが良く見える。今まで見えなかったものまでが見える」と言った。広い宇宙全体が見渡せる高みのような所にいる…といった感じだった。この世のものとは思えない美しい光の粒や束が飛び交う広い空間、それはどうもパーソナルなものを超えた世界、宇宙(?),普遍(?)であるらしい口ぶりだった。

「人と人とがコミュニケートできるのはパーソナルなものを超えた背後に共通のこの普遍(?)の拡がりがあるからではないのか。多くの人によって理解される芸術が成り立つのも、この拡がりを垣間見ることができた人がそれの一部を文字や音や色で写し取って見せるからではないのか」

真実とは、真理とは…そして個を超えた世界、本来あったところの世界に私たちはいずれ帰っていくのではないのか、と隆也は衣枝に懸命に語りかけた。

電通法務部長・野崎隆也は1987(昭和62)年5月6日、白血病により死去した。46歳だった。


淀橋第四小学校のころ、野崎隆也のあだなは、「カメさん」だった。ゆっくり着実に物事を処理し進んでいく性格がすでに表れていた。国語・算数・理科・音楽がよくできた。隆也のクラスは独特の授業法がとられており、毎日朝の1時限目は音楽だ。2時限、3時限、4時限の午前中は通しで、国語なら国語を1カ月続ける。算数は次に1カ月続けてやる。社会もそうだ。午後の時間は図工や体育など。国語は副読本に低学年の時は「アンデルセン」の童話や6年のころは漱石の「坊ちゃん」などをやった。また当時は高校入試に音楽があった時代で、国語・数学ができても音楽ができないという生徒が大変に多かった時だった。しかし隆也たちのクラスは毎日音楽の時間があるので、5年、6年のころには、高校入試の音楽の問題は全生徒ができるほどだった。そのため高校入試の時は音楽など特に勉強しなくても皆合格点をとれて、高校合格率は100%だった。隆也はここでの音楽が身についていたのだろう。ちなみに隆也の子供はヴァイオリンを弾いている。

早慶戦、応援席でアルトサックスを吹く
早慶戦、応援席でアルトサックスを吹く
 

慶応義塾大学応援指導部のブラスバンドで野崎隆也はアルトサックスを吹いた。大学に入ってはじめて手にした楽器だったから最初のうちは至極頼りない音を出していた。他のことは何をやらせても人並み以上の能力を持っていたが、ことアルトサックスに関しては決して器用な人間ではなかった。練習しなくても巧く吹けるほど天才ではなかったし、かといって猛練習するタイプでもなかった。いつもマイペースで練習する男でメンバーのなかでは珍しいタイプだった。それでも1年程練習するとそこそこ吹けるようになった。やさしいところは堂々と吹き、自分のテコに合わない難しいところはできるだけかすむようにしてなるべく目立たないようにしていた。そんな1年生の終わりごろ、フランスから「ギャルド・レピュブリケーヌ」という世界最高の吹奏楽団が来日した。演奏会の曲目の中で、アルトサックスのソロの入った曲があった。じつに柔らかい、澄んだ音色の演奏だった。演奏が終わった後、隆也はバンド仲間に言った。「アルトサックスは本当にあんな音がするのか!」隆也が本物に触れた瞬間だった。翌日からその音色を目指して猛練習する日々が始まった。

野崎隆也は熱中する人である。仕事も音楽も演劇も登山も、どれも人並み以上に打ち込み、それを愛する人たちと共に取り組んだ。対象の深まりと共に友との付き合いも深めていった。

(文中敬称略)

このエッセイは、『野崎隆也追悼文集「不立文字」』より、野崎衣枝、進藤邦夫、寺村正三、阿部邦雄、長縄源太郎、出久根正樹、高浜政明、岩本洸、たかはしたけし、高木正幸、田代貞之、水谷勝人など10数人の文をもとに岡田芳郎が構成しました。

◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。
◎次回は7月9日に掲載します。

プロフィール

  • Okada
    岡田 芳郎

    1934年東京都生まれ。早大政経学部卒。56年電通入社。コーポレート・アイデンティティ室長、電通総研常任監査役などを務め、98年退職。著書に『社会と語る企業』(電通)、『観劇のバイブル』(太陽企画出版)、『日本の企画者たち~広告・メディア・コンテンツビジネスの礎を築いた人々~』(宣伝会議)など。

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