イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ― #03

タフでクールな情熱的法務部長
野崎隆也(2)

  • Okada
    岡田 芳郎

言葉と仕事

 

野崎隆也のハンディキャップは、1964(昭和39)年の電通入社以来人事部育ちで現場を知らないことだったが、共感力と真摯な姿勢がそれをカバーした。

人事部では、人事異動の計画作り、中高年問題プロジェクト、人づくり計画などに取り組んだ。「人づくり計画」が役員会で了承され、いよいよ実施作業に入るという時期に隆也は教育部に転属になり、「人づくり」を教育という側面から推進するスタッフとして、新制度、ルール、施策作りを行い、次々に実行していった。

自主的勉強会、自己啓発援助制度、実務教育の制度などを遂行したが、なかでも特筆されるのは、女性社員教育にはじめて本格的に取り組んだことである。女性社員の活性化はつねづね社内世論で問題にはなっていたが、なかなか手がつけられない未開の分野だった。

彼が最初にやったことは、女性新入社員の集合研修で、この場では校長兼教務主任の二役、教育部の女性社員を指導しつつ自らロールプレイイングの演者としても出演した。このカリキュラムの一つにあったステップ表は、後の総務課マニュアルに結実した。そして野崎隆也は、女性社員のための、話し方セミナー、ファイリングセミナー、ビジネス文書セミナー、企画力養成セミナーなどのコースを次々と新設した。発想、戦術、そして綿密なプランニングの鮮やかさで実現にこぎつけた。これらの研修コースはその後、男性社員にも行われるようになり、一層その役割を広げた。

人事部のころ
人事部のころ
 

人事部の大事な仕事の一つが採用試験用の問題作りである。人事部長以下何人もの部員が参加して問題作りに励む。隆也は問題作成の質・量とも抜群だった。大袈裟に言えば、電通の入社試験問題の大半は隆也作成の英語であり、一般教養だった。

新卒採用のための入社案内を制作するとき、クリエイターが見出しに「○○から○○まで」として、日常の身近な問題から国際情勢まで、電通人にとってそれは仕事のエネルギーだ、といった意味のことを表現したい、と言ったとき隆也は、「藤圭子からサラーム・アレイクムまで」というのはどうだ、と提案した。美人歌手・藤圭子とファイサル国王はこのころホットな人物だった。隆也はジャーナリスティックなセンスも持っていた。この言葉はこの年の入社案内に使用された。

当時、「人事はひとごと」というダジャレが流行していた。社員が仕事を依頼する際その言葉を発したとき、隆也は真面目な表情で答えた。「ひとごとは、いつも当人にとっては自分のことです。それでお役にたつならなんなりと協力しましょう」。

妻を亡くし落ち込んでいる社員のために札幌出張を計画し、その仕事は2つの会議を主催するだけで日帰り可能なものだったが、理由をつけてゆったりと2日のスケジュールを組んだ。6月のライラック香る夜の大通り公園を散策しその社員は英気を養い、立ち直るきっかけを野崎隆也によってあたえられたことをいつまでも忘れなかった。

総合計画室法務部は大学で法学部出身の彼には最も適した部署だっただろう。誠実な対応と飽くなき向学心は、本社内はもちろんのこと、遠く支社・支局からも信頼され、相談事が数多く持ち込まれた。1984(昭和59)年9月1日、隆也は法務部長となった。

総合計画室のメンバーと
総合計画室のメンバーと
 

法務は大変な仕事である。大体電通マンは法律やルールにうとく、それでも何とか現場対応でやりくりつけることを得意とする連中が多い。従ってトラブルが発生してもできるだけ自分たちで処理しようといじくり回す。解決できず、手垢にまみれ、こじれて爆発寸前の状態で法務に持ち込まれることも多い。

“問題がこじれる前にチョット相談してくれれば、意外と簡単に片付くこともあるのに、まったく頭が痛いよ”と笑いながら同僚にこぼしながら、どんな話にも積極的に対応した。得意先からの難題を見事に数千万円の調査企画に作り替え、問題解決すると共に商売としても成功させたケースもある。隆也の知恵だ。

1984年初冬、民営化企業の新マークの商標登録のトラブルが発生した。担当部長から相談を受け、隆也はこの難問に取り組んだ。「このような仕事は法務部にとっても大切な仕事だし、勉強になる。ぜひ手伝わせて下さい」と言い、この作業は難しい局面を何度も迎えたが、隆也の冷静でしかも迫力ある応対は交渉相手にも良い関係を生み出していった。

この作業が始まった最初の打ち合わせの日、問題の把握、整理のため得意先との話が終わらず、夕方からはじまった会議は場所を変えつつ翌日の日曜日の朝まで続いた。ようやく疲れ切って作業室を出た時、すでにすっかり明るくなっていて、午前4時を回っていた。隆也は土曜のゴルフを終え家に帰った直後、このトラブルの相談を受け、得意先に急行したのだった。遊びにもタフだったが、仕事もタフだった。

広告主に同和問題が発生した時、彼は敢然と真正面から取り組み、“是は是、非は非”の裁きを行った。持ち前の正義と熱血で電通のトップ、広告主のトップ、そして告発者の牧師の三方円満解決へと導いた。彼はこの牧師のために電通で講演会を開いている。彼にとって人事といえども、法務といえども、営業だった。それは文字通り、闘う法務部長の姿だった。同和問題については社員から幹部まで等しく十分の認識をもち、実務上の対処を担当者だけに背負わせず、会社ぐるみ、とくに上司の理解が必要だと、知人の新聞記者の意見を社内に広げる努力をはらった。だが真面目な性格だけに心に重い負担になったかもしれない。

大阪電通にいる同期入社の友人からの相談がきた。松下電器がエレクトロニクスの総合科学館を開設することになり、そのための運営会社を設立することが急遽決定し、準備期間はわずか2カ月しかないが、新会社設立のノウハウがないという。隆也の適確な指導と親身なアドバイスによって、初期の予定通り新会社設立にこぎつけることができた。この友人は仕事を通じ、温かく細やかな気配りに隆也の人柄を垣間見た。スケジュールに合わせて、注意すべきポイントなどを電話やファックスなどで手ぬかりなく教えてくれる。それには恐縮するばかりだったという。

初対面の法律事務所の責任者に野崎隆也はこう切り出したという。「国際化、国際化ということが社内で声高に叫ばれるようになっていますが、その国際化に対応できるだけの法務の体制が出来ているかというと、社内的にもまた社外弁護士との関係でも十分にできているとは言えません。私は、社内における海外法務の体制を強化するとともに、社外の弁護士との間にもこれからの海外法務に対応できるだけの緊密な関係を創ってゆきたいと考えています。電通の抱える法務の中の重要な柱の一つは、著作権、肖像権などの知的所有権に係わる分野で、その中でも宣伝、広告に係わるところの、特殊化されたものです。日本ではまだ残念ながら法律家の間で、宣伝、広告とからめた知的所有権の分野が法学の専門分野の一つとして認知されていません。この分野が法律学の一つの専門分野として認知され、そのための判例の蓄積が進み、専門家が育っていけば、宣伝、広告業界にとってもメリットのあることです。電通は業界のリーダーとして、そのためにやるべきことを、これからやっていかなければならないと考えています」。隆也はこの法律事務所が電通法務部とともにパイオニアとしてこの分野を開拓していこうというチャレンジングな気持ちがあるかどうかを問うたのだ。それから1年程経つうち本格的にこの事務所とともに国際案件に取り組むようになった。そして新しいこの分野のノウハウを一つ一つ蓄積していった。だがまだすべてが端緒についたばかりの段階だった。

野崎隆也は不治の病にかかった。

隆也がまだ人事部にいた若いころ、親しい友人に相談したことがある。「オレ、今からでも営業が勤まるかな?いちど営業でやってみたいんだよ」。この時、彼の目は正気のものだったという。本気だナと思い、「大丈夫、勤まるよ」と友人は答えた。そして上司や人事担当役員に話し、彼の営業への転属を願ったがかなわなかったのだ。

営業重視の社風の中で、最後まで営業の現場を踏めなかったことがもしかしたらすべてを見たがった彼に悔いを残させたかもしれない。

(文中敬称略)

このエッセイは、『野崎隆也追悼文集「不立文字」』より、野崎衣枝、進藤邦夫、寺村正三、阿部邦雄、長縄源太郎、出久根正樹、高浜政明、岩本洸、たかはしたけし、高木正幸、田代貞之、水谷勝人など10数人の文をもとに岡田芳郎が構成しました。

◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。
◎次回は7月10日に掲載します。

プロフィール

  • Okada
    岡田 芳郎

    1934年東京都生まれ。早大政経学部卒。56年電通入社。コーポレート・アイデンティティ室長、電通総研常任監査役などを務め、98年退職。著書に『社会と語る企業』(電通)、『観劇のバイブル』(太陽企画出版)、『日本の企画者たち~広告・メディア・コンテンツビジネスの礎を築いた人々~』(宣伝会議)など。

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