イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ― #06

三森重道。いつも明日を見ていた(2)

  • Mutou m pr
    武藤 真登
    株式会社武藤マーケティング研究室 代表取締役

万博漂流

 

1985年3月10日 つくば科学万博「でんでんINS館館長室」

 「今の現状を電通さんはどう考えているのかね。僕は大いに不満、いや不安だよ」。この巨大なパビリオンの総責任者である館長は完全に怒っていた。その橫では副館長も天井を見て押し黙っている。向き合う電通側は三森部長、筒井SP局長、そして僕だ。このパビリオンはどこに向かうかハッキリせず、万博会場を漂流していた。僕も正直開催に間に合うか不安だった。

あと1週間で華々しく開会式を迎える科学万博の中で、最も準備が遅れているパビリオンがこのINS館だった。理由は単純で ①あまりにも多様な演出 ②毎日場所を変えて生放送をするシアターホール ③80名のコンパニオンに50名のスタッフ、常駐する電電公社職員(民営化はこの年の4月)も技術、事務系併せて50名、ともはや一つの会社に匹敵する人数で、かつ統制が取りづらい混成軍であること。

この超難易度の高い企画を考え出したのが三森部長だ。「最後まで全力を尽くし、全てを必ず完成させます」。張本人は平然と答えた上に、「開会式の当日まで私と筒井は常駐します」と付け加えた。不眠不休の1週間の始まりだった。

僕はその時三森さんから万博行きを命ぜられた8カ月前を思い出していた。あれは完全に部長に仕掛けられた罠だった。

1985年4月に新人研修後、第9営業局三森部に新人として配属された時は本当にうれしかった。新人で営業職、それも政府、官公庁、特殊法人を扱う部署の電電公社担当。人生初めての上司が三森さんで、前年に40歳で最年少部長となったエリート感バリバリのスリーピースを着こなす格好いいボスだった。

当時の三森部は7名で構成された電電公社を担当する営業部であった。僕が入社した年から扱いが倍々ゲームで増加し、全く人手が足りていなかった。翌年にはNTT民営化、科学万博、INSサービスの導入や各事業部の独立など、毎日三森部全員が終電過ぎまで会社で働いていた。

一仕事を終え、三森さんと一献
一仕事を終え、三森さんと一献(筆者右)
 

僕も入社1年目ながらCI業務や国際広報など一人で担当業務を持っていた。そして三森部長が得意先の接待を終えると10時過ぎに会社に戻ってきては、企画や業務のチェックすることが恒例化していた。当時企画書は手書きの青焼きで中身よりも誤字脱字を何回もチェックされた覚えがある。

そんな多忙ながら先輩たちに指導され楽しく働いていた8月のある日、僕と優秀な先輩社員が二人、三森部長から打ち合わせコーナーに呼ばれ、深刻な感じの中、「万博が非常事態だ、君たちのうちどちらかに万博の営業責任者として筑波に行ってほしい」と話があった。

マジ、あり得ない。やっと4年の筑波大学生活を卒業し、東京に戻り電通マンとして肩で風きり日比谷を闊歩しているのに。また何が悲しくて筑波に戻るのか。「万博は担当者が次々に倒れ、電通として深刻な状況だ」と噂も聞いているのに。しかし、先輩社員は筑波大学の5年先輩でかつ重要案件の責任者だと知っている。「俺しか無いじゃん、行くとしたら」僕に選択肢は無い、覚悟を1分で決め、三森部長に自分が行くと告げていた。

「そうか、武藤が行ってくれるか。筑波の体育会出身だし、イベントもわかっているしな。実は本社のイベント課長も武藤くらい若い力が必要だと指摘されている」。後に「心からの後悔と素晴らしい体験に感謝することになる」科学万博がこうして始まった。

当初は博覧会がオープンして2カ月くらい。5月の連休くらいで戻すと部長は言っていたが、結局10月の会期終了後完全撤収の11月まで筑波に常駐した4月末までは部長も付きっきりで指導してくれた。

本当に試練の連続で、3月の消防訓練では練習不足で当局からお叱りを受け、おまけに取材に来ていた新聞には「お祭りムードに喝」と写真入りで取り上げられ最初の始末書を書かされ、さらにオープニング当日にはコンパニオンを乗せたバス渋滞に巻き込まれ、何と開場時間に間に合わず、万博がオープンした時にはパビリオンにコンパニオンが一人もいない不始末を起こし2枚目の始末書、そして「3枚目で責任者更迭」と館長から三森さんが言い渡された。いつも余裕をかましている部長もさすがに顔が引きつっていたが、僕には一言も文句を言わずかばっていてくれた。

笑えない駄洒落を連発しない時の三森さんは危険水域だ。この人は心からの優しさや理解力、仕事に対する裁量も委託してくれるが、内面は厳しく、冷徹だ。

自己責任を理解し、前向きにリーダーシップを発揮してクライアント評価とプレゼンに勝ち、収益を上げる部員には最大評価をくれる。しかし逆の場合は、いつものように少し笑いながらも心の中でばっさりと切ってくる。この三森さんの仕事に求める姿勢はいつの間にか僕にも身についてしまった。後に電通を8年で退社するころはスタッフからも周囲の社員からも何となく恐れられていた気がする。

でんでんINS館での懐かしきイベント風景
でんでんINS館での懐かしきイベント風景
 

万博で得意先からも高い評価を得た僕は、この後催事、プロモーション担当の営業として思い切り働いた。三森部長もその都度いろいろアドバイスをくれたが業務の企画や実施に関しては完全に任せてもらっていたと思う。仕事以外でもよく銀座やゴルフに連れて行ってくれた。

おまけの話であるが、そんな楽しげに働く僕を同居していた父がうらやましくかつ、なぜ電通はこんな若手に責任ある大きな仕事を任せるか不思議であったようだ。

父は当時日本鋼管NKK(現JFE)の秘書役で経営企画とCIを担当していた立場であったが、ある日突然「NTTの民営化を統括した君の上司の三森さんに会いたい」と言いだし、電通に三森さんを訪ねてきた。二人がどんな話をしたのか知らないが、その後父は他のコンサルティング会社が担当していたNKKのCIを電通、それもNTTの民営化チームに変えてしまった。

その後、頻繁におもしろいことが起こった。それは、僕が会社で残業をしていると父から三森さん宛に電話が入る。しばらくするとハイヤーが迎えに来て二人で銀座、赤坂に繰り出す。12時過ぎると最後の店から呼び出しが入り、僕が合流するが、乾杯すると席を立ち親子で自宅に帰った。父も三森さんが大好きであった。1987年春にがんで父が急逝した時は、三森部の先輩たちが総出で手伝ってくれた。葬儀の前夜、最後まで弔辞を一緒に考えてくれた部長を思い出すと目頭が熱くなる。

それから10年後に、三森さんも亡くなった。何となく二人の父を亡くしたようで寂しいが、三森さんをはじめ電通の諸先輩に叩き込まれた電通マンスピリッツに恥じぬよう今後もADマンとして頑張りたい。

(文中敬称略)


◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画をしています。
◎次回は7月18日に掲載します。

プロフィール

  • Mutou m pr
    武藤 真登
    株式会社武藤マーケティング研究室 代表取締役

    戦略マーケティングディレクター、新規事業開発アドバイザー

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