イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ― #07

三森重道。いつも明日を見ていた(3)

  • Kobayashi toshi pr2
    小林 俊規

聖火を長野へ

 

1991年6月15日午後7時28分、バーミンガムのIOC総会の投票結果発表の会場、約1,000人の招致団が演台で封筒を開くサマランチ会長を固唾を呑んで見守る。

「シティー オブ ナガノ」長野の招致団が爆発する。その中に満面の笑みを浮かべながら、涙が止まらない私の肩を抱き、ねぎらいの言葉をかけてくださる人がいた。この人こそ長野冬季オリンピックの招致委員会を終始支え、勝利に導いてくれた電通の三森重道さんである。

県や市町村の職員を主体とする招致委員会事務局職員は、得意とする前例踏襲はそつなくこなすが、新たなものへの挑戦には二の足を踏む。まして大金を費やして失敗するかもしれないなどという仕事の経験は無い。

三森さんはそんなわれわれにさまざまなアイデアを示し「クライアントは長野だから」と選択を求めた。が、財政的な制約もあって提案されたことの半分もやれなかっただろうと思う。

招致委員会事務局で
招致委員会事務局で(筆者右)

○三森さんとの出会い

私がオリンピックに関わった最初は国内競争のころ。財政課でオリンピックの収支計画全体をまとめていた。それも長野オリンピックなど夢のまた夢と思いつつ。国内競争に勝って88年の7月体育課へ、ほぼ1年後閣議了解を取り、90年4月招致委員会の広報渉外部長となるが、IOC東京総会対応のため、7月に勤務地を東京に移す。

当時電通は本社近くの1室にWONルーム(Winter Olympic Nagano)と名付けた長野支援の拠点を持ち、三森さんをキャップに外国人を含め6人体制を組んでいた。長野からはやや遠い存在であったが急速に大接近、バーミンガムの勝利会場まで引き連れていっていただく三森さんとの運命の出会いだった。

○プレゼンテーションで勝負

今回久々に招致報告書を見ると、招致活動は広範で多岐にわたり、よくぞ切り抜けて来たと思う。最も重要視したのは、92人のIOC委員にいかに接触し、長野を売り込むかであった。タンミング良くIOC総会が東京で開催されたこともあり、それなりの感触は掴めてはいたが、三森さんは最後の勝負は総会のプレゼンテーションとよんでいたようだ。

○スピーチトレーニング

IOC総会で最も大切なプレゼンテーションでのスピーチの訓練に、プロを雇おうと三森チームから提案があった。しかもアメリカから呼ぶのだと言う。思いがけない話にやや躊躇したが、是非との押しに乗ることにした。みえたのはいかにもアメリカ人おばさんといった風情で、トレーニングには通訳以外は入れず、その様子を知ることは出来なかった。しかし知事は「バーミンガムにも呼んでほしい」と言う。どうも英語の訓練ではなくスピーチの勘所を教えているらしいのだ。本番での長野勢の堂々たるスピーチは、彼女を選んだ三森チームの成果であろう。

○伊藤みどりの振袖

IOC総会でのプレゼンターの1人に、冬季競技選手代表として伊藤みどりがすんなり決まったが、三森チームは彼女に振袖を着せようと提案してきた。振袖を借り、バーミンガムへ持ち込むのも大変だが、美容師も同行しなければならない。美容組合の推薦で同行する美容師が決まったが、事前に伊藤みどりの頭を見たいと言う。名古屋に飛んでもらい準備もできたころ、ある御仁から「チャラチャラしたことを」とクレームが付く。未婚の日本人女性の正装は「振袖」の確信を得て強行、「日本人女性が振袖を着るのは特別の時なのです」と、あでやかな和服姿でのスピーチはIOC委員に強い印象を与えたに違いない。

○ビデオの作り直し

IOC総会まで1カ月と迫った5月15日、知事や市長らの招致委員会の幹部を集めてプレゼンテーションに使う映像の試写会が東京で行われた。用意したビデオは、長野の紹介、海部総理大臣や小澤征爾のメッセージ、子供たちのオリンピックへの思い、新幹線や高速道路の交通網整備、競技施設や選手村などの整備計画であり、それぞれに三森チームのアイデアや思いが詰められていた。

その中で、競技施設や選手村などの整備計画のCG中心の映像に、厳しい不満の声が寄せられた。「ハイテク五輪を標榜しながらこんな映像では話にならない」と。しかし知事も市長も一言も発言することが出来なかった。不評の映像はそれを制作した電通の責任ではなく、長野の財政的な制約から、映像制作経費に上限を示していたからである。

知事に同行していた県の東京事務所長は県の財政課長に電話、「あれでは持たない」と。急遽財政課長は資金集めを再開、「出来ることはやれ」の指示を受ける。しかしCGを作成するスタジオに空きがない。こんな時三森チームは真価を発揮、日曜日の夜など空きを求めて奔走、競技場に旗をはためかせ、選手村に壁掛けテレビを付けた。出発ぎりぎりに完成したが、さらなる気配りは、多様な再生機種に対応出来るよう、数種類のテープにダビングし、バーミンガムに持ち込んだのだ。

○プレゼンテーション

プレゼンテーションに入場できる人数は、デレゲーション12名、オブザーバー35名。デレゲーション12名はともかく、オブザーバーの人選には苦労したが、もしもの時を思い三森さんに入っていただいた。プレゼンテーション終えた三森さんの安堵の表情に、勝利への夢を繋いだ。

○それから6年半後

1998年2月7日晴れ。招致ビデオそのままに、五輪旗のはためく5万人の観衆のスタジアム、バーミンガムで「長野へご招待します」と振袖姿でスピーチをした伊藤みどりが、聖火リレーの最終走者に選ばれ聖火台に点火、厳寒の長野の空を炎が焦がした。

これを三森さんはどこでご覧になられたのだろうか。

(文中敬称略) 

〈 完 〉 


◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画をしています。
◎次回は7月23日に掲載します。

プロフィール

  • Kobayashi toshi pr2
    小林 俊規

    元・長野オリンピック招致委員会広報渉外部長

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