電通を創った男たち #14

電通電波ビジネス黎明期の牽引者

木原通雄(13)

  • Okada
    岡田 芳郎

気どり屋でおしゃれな文学青年

 

新聞記者時代の木原(上海にて)

信長と中国貴公子 大阪支社企画調査局長 松本豊三

こんなことになるなら、彼の手紙は一枚残らずとっておくべきであった。一信一行必ず「信長」がああしたこうした、こうあらせたいと、それに触れないことはなかった。「信長」とは彼がひそかに名づけて得意とした吉田社長の別名である。

私は過去の大半を外地で送ったので、この人の華々しい記者時代を知らない。初対面はたしか、私がまだ本社で独立四部をやっていたころ、社長に呼ばれて行ってみると、そこにはかねて顔見知りの迫水久常氏が例の魁偉の風貌に微笑を漂えて社長と対談しており、その傍らに口をへの字に結んだ白面矮躯の、見るからに俊敏そうな男が控えていた。社長に紹介されて、はじめてそれが電通に入社する木原通雄君であることを知った。

実を言うと、私は内地に引き揚げてから、彼の名だけは度々耳にしており、報知、国民時代は鳴らした政治記者で、終戦の詔書の原案はその筆に成るということも聞いていた。また相当の策士で警戒を要するというのも編集仲間での定評であった。

忽ち見抜く力 だが、電通に入った途端に、彼はその持ち前の英知と達識により、広告という、同じ新聞の部門でありながら、従来知ろうともしなかったであろう分野が、実は果てしなき曠野であり、底深き沃土であることを忽ちにして見抜いてしまったに違いない。

彼を重用したのは「信長」であり、またの名・ゴジラ社長である。自ら持するところ高かった彼も、ここにはじめて打ってつけの職場を得、傾倒するに足る人を得たというのが真実のところであろう。彼の行動を危ぶみ,警戒を要するというのは彼を相手に廻しての話である。

よく書き働き遊ぶ 私は木原君と、手紙で時々和歌や漢詩のやりとりをしていたが、私の悪フザケに対し、いつも格調の高いものをもって応酬してきた。いつぞや彼の急所を織り込んだ長いヤツを送ったら、これには苦笑して頭をかいていた。あの若さで実によく和漢洋の書を読んでいた。またよく書きよく働きよく遊びもした。欲望は硬軟両面に亘って旺盛であった。

至って伊達者 すこぶるツキの伊達者で爪には薄桃色のマニキュアをしていたし、旅行には香をこめた和服一揃えを持参していた。彼自身の告白だから書くが、滞米中はよく中国貴公子(?)と間違えられたという。そういえば白馬銀鞍に跨らせて、天津橋上を悠々と打たせてみたかった。故人もゴルフよりはその方を望んだであろう。

――満鉄弘報課、満州日報理事長、満映理事として戦時中活躍した松本豊三は、多くの苦難を乗り越えた人間通だった。松本は木原の教養とおしゃれを記述している。松本と交わした手紙にはいつも「信長」のことが書かれてあったというが、いかに木原が吉田社長に心酔していたかが窺える。

やり切れぬ思い 大阪支社営業局長 高橋 渡

「キー」が死んだ。やり切れない気持ちである。「キー」というのは木原に対する我々仲間の昔からの愛称である。私の中学一級下であるが、当時の彼については、余り記憶がない。ただ私が松山高等学校時代、中学の剣道部の選手を連れて剣道大会に来たことを覚えている。

彼は当時剣道部のマネージャーであった。しかし剣道が特に強かったという話はついに聞かなかった。当時、なんとかして松高に引っ張ってやろうと思ったが早稲田に入ってしまった。その後、当時早稲田の教授をしていた片上伸さんにその才を認められ、大変可愛がられているということを耳にした。

彼と親しく往来するようになったのは私が東大に入ってからである。当時―昭和三年ごろ―すでに彼はひとかどの理論家としてわれわれ仲間の指導的地位にあった。ただそのように図抜けてはいたが、彼は自らの理論を強引に他に押し付ける傾向があり、しかもそれが一見理路整然としていて、彼のいうところが誤謬と分かっても全くかなわぬというのが、われわれ仲間の評判でもあった。彼の強気を示す一面である。

飲み且つ論ず 芥川を批判した「敗北の文学」で一躍評論界に知られ、東大の学生でありながらすでに一流の文学評論家の平林や蔵原に伍し堂々の論陣を張った宮本顕治(宮本百合子の主人)に、当初決定的な影響を与えたのも木原であった。宮本も木原と同様中学では私の一級下であったのだ。東京ではお互いに学校は異なっていたが、五、六名が一つのグループをつくって、下宿を往来していたし、汁粉を食ったりおでんを食ったりまた酒も良く飲んだ。しかし、よく本も読み、また議論もした。いまは全くなつかしい想い出の数々である。

屈託のない一面 ある時こういうことがあった。宮本の下宿の二階で宮本と木原と私の三人で飲んだことがあった。その時木原と私は酒の肴に沢庵漬を買って行ったが、木原はその沢庵二、三本を無造作に懐の中に入れ、お蔭で彼の懐は糠みそで滅茶苦茶になった。だが彼は平気な顔をしてナイフで沢庵を切って酒の肴にした。

大学生時代

その姿が二十年経った今でもまだ目に見えるような気がする。気取り屋で、しかもおしゃれ屋の彼にも屈託のないこんな一面が人知れず最後まで残っていた。その後彼は早大を中退して報知新聞に入り、宮本だけが一路自らの道を進み、お互いにバラバラになった。それから年を経て三十年近くになって木原だけが私の旧い友人として同じ仕事に関係していたのに、その彼もまた遂に死んでしまった。まったくやり切れない気持ちである。

――学生時代以来の友達だった高橋渡は、木原がそのころから文学青年で理論家であり、影響力をもつリーダーだったことを述べている。仲間との付き合い方にも彼の人となりが表れる。高橋渡も戦時中は満州日報業務局長を務めていた。

 

(写真上)新聞記者時代の木原。上海にて、(下)文学青年の面影残る大学生時代

(文中敬称略)

プロフィール

  • Okada
    岡田 芳郎

    1934年東京都生まれ。早大政経学部卒。56年電通入社。コーポレート・アイデンティティ室長、電通総研常任監査役などを務め、98年退職。著書に『社会と語る企業』(電通)、『観劇のバイブル』(太陽企画出版)、『日本の企画者たち~広告・メディア・コンテンツビジネスの礎を築いた人々~』(宣伝会議)など。

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