イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ― #08

耕さん!
才能へのなりふりかまわぬ愛【上】

  • Masuda yoshio pr5
    増田 良夫

「ぼくの知っている、若かった日の耕さんの仕事ぶりは、朴訥で、誠実で,不器っちょで、名前どおり、野良仕事をする人が土の中に指を突っこんで何かをまさぐるような感じがありました。この業界には、思わせぶりなことをカッコよく流暢にしゃべる、かしこい人が多いけれど、そういう人はイザとなると腰が引けてしまう。それにくらべて耕さんには、土の芯まで根をおろして生きている、土と同化した強さがありました。しかも、時おり恥ずかしそうに浮かべる小さな微笑みが、また爽やかで、そのたびにぼくは、くたびれて火照って、汗にまみれた身体をせせらぎに浸すようなこころよさを感じました」

「耕さんとは、この業界でたぶんぼくが、いちばん長いおつきあいです。1960年に日本デザインセンター(NDC)ができて間もない頃、耕さんと出会いました。耕さんは朝日新聞のイブニングニュース(ママ)にいたと思います。広告のコピーを書きたいというので、NDCにきてもらいました。それからいっしょに、ずいぶんたくさんトヨタの仕事をしました。何年かたったある日、耕さんはFA宣言をして『電通へいきたい』といい、メジャーデビューを果たしました。その後の耕さんの活躍はご存じのとおりです」

梶祐輔さんの『耕さんとのこと』全文である。耕さんについて、とりわけその人柄について、梶さんは語り尽くしてくれている。

NDCのメンバーと。前列左端が岡田耕、左から4人目が梶祐輔
NDCのメンバーと。前列左端が岡田耕、左から4人目が梶祐輔

話はそれから先、電通時代の耕さんである。1967年7月入社。35歳だった。電通の第一印象は「電通って凄いと思う。僕をディレクターにしないのが凄い!」であったらしい。むろん電通に来たからといって、「耕」の人柄が変わるわけもない。端折って云えば、この人柄で耕さんは電通クリエーティブの土を耕し、クリエーターに肥しをかけ、広告創造の愉快で豊饒な花畑をつくった。

「そんな、大袈裟だよ!」前髪──精確には右こめかみの上あたりの──を右ひと差し指にクルクルとからみつかせ、照れる耕さんが見えるようだが、その人柄がいかに稀有なものであったか、岡田耕「現役最後のコピー」に接したデザイナー、寺尾武司がこう語っている。

1970年というから、耕さんが電通に来て3年目のこと。とある銀行の新聞広告。耕さんの書いたコピーは「お金にはキビしくなろう」だった。まだ駆け出しの寺尾デザイナーにはその良し悪しが分からない。何となく平凡ではないか、と思うくらい。たまたまそこに居合わせたのが、部下のひとり、新進気鋭の若きコピーライター桝田弘司。「岡田さん、それ、ひっくり返したほうがいいですよ。『キビしくなろう、お金には』です」。横たわっていた鮎が跳ねあがるように、一行が跳ねた。このとき耕さんがどう反応したか?これがクイズの問題。

「あ、いいよね。桝田くん、それいいよね!」

耕さんは喜んだのである。大喜びしたのである。この素直さはいったい何なのか。寺尾デザイナーは桝田弘司とともに(しばし)呆然とした、という。

耕さんの素直さの下地にあるのは、ひとことでいえばフェアだ。一瀬舜司曰く「駆け引きのない純粋さ」である。しかしこうした無私が、世間ではときに物議をかもす。耕さんがクリエーティブ局長になり、某新聞社の広告賞の審査員になったときのことだ。

最優秀賞が決まりかける。A自動車会社の全15段広告。審査委員長に意見を求められる。耕さんはその候補作品をベタ褒めする。熱い言葉で。同じ席に岡田耕局長の担当するB自動車会社の宣伝部次長が鎮座するにもかかわらず。ことの次第は当然宣伝部長に報告される。さあ、たいへん(事件の重大さを理解していただくには実名表記がいちばんなのだが、そのへんはごカンベン)。

耕さんが亡くなったとき、懇意にしていた仲畑貴志さんから言葉をいただいた。「耕さんに教わったことは、たくさんありますが、中でも、とくに心に残るのは、そのフェアな姿勢です。ともすれば汚れがちなビジネスの中で、いつも清潔に、一直線に、歩いてこられたことを思うと清清しい気もちになります」と。審査員の一人として、仲畑貴志さんもその場にいらしたような気がしてならないのだが、考え過ぎだろうか。ともかく耕さんはそういう人なのである。

それと。耕さんは英語がしゃべれた。朝日新聞社で、This is Japanを担当していたくらいだから驚くにあたらないのだろうが、筆者には意外だった。なにしろ30数年のつきあいがあるが、耕さんが英会話する現場に出くわしたことがない。NDC時代、いまや古典となった『効果的なコピー作法』の作者、西尾忠久さんの下にいて「そういえば、翻訳なんかもしていたんじゃないかなあ…」と、鈴木康行さんからもれうかがった程度。

その耕さんがニューヨークへ研修に行った。シニア・クリエーティブディレクターのころである。3カ月間。アメリカ土産をいっぱい抱えて帰って来た。そして、それをすぐに新入社員たちにふるまった。

「きみたちは『道路工事中』を英語でなんと云うか。受験英語ではUnder Constructionと習ったと思う。でも僕はあっちでこんな標識を見たんだ。Men Workingだ。人が働いています。なんつーかなァ、とても素敵な云いまわしだと思うんだよね。いま工事中であるぞ、とお達しするんじゃなくて、此処で人が働いていますから気をつけて、と語る感覚。何のための、誰のための標識(コピー)なのか、考えなくちゃだめだよ」。

当時の新入社員、菊地晶の思い出である。また、そのころクリエーティブ担当役員だった尾張幸也には、Something NewのSomethingをしきりに説いた。面と向かっておどろかすものより、こころの隅っこを弾くものを大事にしたい、表現哲学というより、耕さんの人間哲学である。


人物註
(電通関係者は敬称略)

☆ 梶祐輔さん:電通を経て1960年に日本デザインセンター設立に参加。同社最高顧問。広告業界における御意見番としてその足跡はインターネット等に詳しい。故人。

☆ 寺尾武司:電通アートディレクター、第三クリエーティブ局長。のちに大阪成蹊大学教授。

☆ 舛田弘司:電通コピーライター。富士ゼロックスの「ビューティフル」キャンペーンを点火した男。糸井重里・編著『コピーライターの世界〈世の中ぜんぶ広告なのだ〉』で座談している。故人。

☆ 一瀬舜司:電通第一クリエーティブ局次長。局長時代の耕さんの相談役、兼、呑みともだち。故人。

☆ 仲畑貴志さん:現東京コピーライターズクラブ会長。コピーライティング以外にも多方面での活躍ぶりは解説するまでもない有名人。

☆ 西尾忠久さん:NDC出身。アメリカDDBの広告表現を日本に紹介した『効果的なコピー作法』は代表作。その他広告に関する著作多々あり。故人。

☆ 鈴木康行さん:NDC出身のコピーライター。独立後「T・I・M・E」創設。2011年東京コピーライターズクラブ顕彰者。鈴木康之のペンネームで、コピーライティングならびにゴルフマナーに関する名著、数知れず。

☆ 菊地晶:電通コピーライター。第三クリエーティブ・プランニング局次長。電通クリエーティブ・フォース取締役。

☆ 尾張幸也:電通専務。『電通を創った男たち』に豊かな人物像が描かれている。


◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画をしています。
◎次回は7月31日に掲載します。

プロフィール

  • Masuda yoshio pr5
    増田 良夫

    1942年東京生まれ。東京都立大学法経学部・経済学科卒。65年電通入社。コピーライター。第四クリエーティブ局局長。電通テック常務。もっか一人の妻・七匹の猫と同居生活。坊城浩の筆名で閑文字づくりの日々を送る。

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