イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ― #10

耕さん!
才能へのなりふりかまわぬ愛【下】

  • Masuda yoshio pr5
    増田 良夫

シャカシャカシャカシャカ。耕さんの最初のマイカーはパブリカである。NDC時代の担当商品だからうなずけるが、電通に入ってもこの空冷エンジン車に乗っていた。名門、戸塚カントリークラブの玄関にも、シャカシャカシャカシャカと──鈴木康行さんから無断拝借したオノマトペ──このパブリカを横づけした。そのつぎがいすゞのジェミニ。最後はトヨタにもどってコルサだった。「いつかはクラウンに」とは、間違っても思いの行かぬ人だった。飾らぬ。というより飾ることのできない人だった。

深夜、電通の前の酒屋でワンカップ大関を2つ買って(にこにこ)タクシーに乗り込む姿を、耕さんは内田東に目撃されている。これをチビリチビリやりながら、逗子の家へ帰るのだ。スタッフから、明日の厄介なプレゼンテーション原稿でも見せられていたのだろう。「耕さんの、その日の、というより人生の中でいちばんしあわせな楽しい時間ではなかったか」と内田東の小感。

耕さんは酒好きだったが、うわばみではなかった。どちらかといえば、すぐ酔っぱらってしまうほう。これも深夜、撮影スタジオから戻った山本裕に、岡田ルームの床で大の字で寝ているのを目撃されている。「でも、ちゃんと新聞紙を敷いているところが、ただのよっぱらいとはちがっていました」

で、肝心の耕さんの作品(仕事)である。コピーライターとしての代表作はNDC時代のトヨタパブリカだが、無念にもこれが手元に数点しか残されていない。1966年にコピーライターズクラブ賞をとったものと、いくつか。国会図書館へ行って、マイクロフィルムになった新聞を一枚一枚めくれば見つかるのだろうが、地中から陶片を掘り出すエネルギーは筆者には(もう)無い。いまとなっては、秋山晶さんの回顧にそれをしのぶばかりである。

クラブ賞を受賞したパブリカの新聞広告
クラブ賞を受賞したパブリカの新聞広告

「もう数えることもできないほど遠い昔になりますが,PUBLICAの新聞広告を(というより、それを目にした朝の感覚を)いまでも覚えています。15段で車が縦に置かれていました。切りぬきで、ディテールのコピーが引き出し線で図解されていました」

たぶんDDB調の(ごつんと)しゃれた広告だったに違いない。秋山晶さんがライトパブリシティに入られるまえのことである。

そして、電通に来てからの代表作は──無い。電通での耕さんの作品は、すべて「人間」だからだ。ディレクターは直接に手を下さずとも、関わった仕事には〔CD:岡田耕〕と書き込んでさしつかえないのだが、耕さんはけっしてそうしなかった。例外は、入社と同時に担当した富士ゼロックスくらいのものだろうか。手柄は部下のもの。世間の喝采で才能はさらに育つ。そう考える人だった。味の素、トヨタ、富士ゼロックス、ソニー、カネボウ化粧品、ブリヂストン……、まだまだたくさん楽しい仕事はあったが思い出せない。どれも耕さんが「見ようとしない目で見ていた」仕事である。

 
[クリエイティブディレクター 岡田 耕]とある富士ゼロックスの新聞広告
[クリエイティブディレクター 岡田 耕]とある富士ゼロックスの新聞広告
 

鎌倉から江ノ電に乗って8つ目が腰越駅。歩いて3分ほどのところに満福寺がある。本堂への石段の登り口に江ノ電の踏切があって、電車がのんびり通り過ぎると、遮断機が自動ドアのように(ひょいと)上がって、じつに珍妙な景色だが、源義経が逗留したというゆかりのある寺だ。

いま、耕さんはそこに眠っている。平成12年11月21日。享年68歳。釋作願とある。聞きかじりだが、作願とは仏にならんと願うこころ。「サガンっていいでしょ。覚えやすくって」と微笑むのは晴子夫人だ。「わたしの(戒名)もいっしょに作ってもらってあるの」。思わず目を覗き込んだら、「だって作者が同じなら、トーンもいっしょになるでしょ」そう云って晴子夫人は二度うなずかれた。なるほどなァ。この愛を何と呼んだらいいのかなァ。夫婦愛ではちょっと気恥ずかしいし……。逗子の、岡田家からの帰りの車中、筆者はずっと考えつづけた。

その黒御影に刻まれた墓誌で初めて知ったのだが、耕さんの父上は昭和23年、45歳で亡くなられている。耕さん16歳のときだ。晴子夫人のお話によれば、父上は戦前の青山学院の英文科を出ている。青山学院は明治の中頃には東京英和学校と名のったキリスト教プロテスタント・メソジスト派のミッションスクールである。父上の英語は(きっと)筋金入りだったに違いない。耕さんの英語が父上の薫陶を受けていただろうことも、想像にかたくない。どちらかといえば耕さんの英語力を軽んじていた筆者が(墓前に)ひれ伏したこと、いうまでもない。

耕さんは1981年ならびに1982年の「カンヌ国際広告祭」の審査員になっている。

1981年カンヌ国際広告祭で
1981年カンヌ国際広告祭で
 

1年目は、めでたく、日本がカンヌ国際広告祭金賞を受賞している。サントリーの「雨の中の仔犬」(カンヌ用タイトル)である。広告人ならずとも京都の寺や路地裏を歩く、可愛い仔犬のCMはご記憶にあるだろう。欧米の、アイデア優先の、溶けた鉛のごとき潮流の中にあって、この純和風エモーショナルCMのために耕さんが審査会場でいかなる舵をとったか、いまとなっては知る人もない。企画・コピーは仲畑貴志さん。授賞式のために急遽カンヌに呼ばれた仲畑さんがタキシードの衣装合わせでたいへんだったことだけは筆者も耳にしている。

 
サントリー トリスウイスキーCM「雨と子犬」編
サントリー トリスウイスキーCM「雨と子犬」編
 

2年目は──2年連続審査員のご褒美で──晴子夫人が同伴している。そのときの審査中の出来事を晴子夫人が(こっそり)教えてくださった。

「イギリスの審査員だったかな。ほんと、いやなやつで。こいつが日本のCMをひどく侮蔑したの。ジャップとかイエローめといった、例の調子でね。そしたら、耕が憤然と反撃したの。そいつに掴みかからんばかりに。トツトツとだけれど、ズンズン胸に突き刺さる英語でね」
(念のために補足しておく。晴子夫人は耕さんと同じ早稲田大学教育学部英文科卒、ESSで英会話を鍛えられている)。
「ふつうの日本人なら、ニタニタ、ヘナヘナしちゃうのに、すごいな、やるなァ、と思った。わが亭主ながら立派だなあ、と感心した。うふふ」

冒頭の梶祐輔さんの言葉を思い出していただこう。「この業界には、思わせぶりなことをカッコよく流暢にしゃべる、かしこい人が多いけれど、そういう人はイザとなると腰が引けてしまう。それにくらべて耕さんには、土の芯まで根をおろして生きている、土と同化した強さがありました」 

ふと目に浮かぶのは、一本の牛蒡である。泥のまま、ピーマンやブロッコリーやセロリの間に置かれ、遠慮がちに、まっすぐな体を横たえているシャイな牛蒡だ。きんぴらがいい。天婦羅もいける。最近は細切りにしておしゃれなサラダにもするらしいが、その持ち味は「頑固な歯ごたえ」である。美味というより滋味。ことさらに主張しないが、噛めば噛むほどしみ出る旨み。たしかに、耕さんはそういう人だった。

まあ、それはともかく。こんど天気の良い日に鎌倉あたりへ行くことがあったら、ひと足伸ばして、ぜひ、耕さんのお墓に立ち寄って話しかけていただきたい。耕さんは大喜びするはずである。「来てくれたんだ。うれしいなァ、ぼく!」と。


人物註
(電通関係者は敬称略)

鈴木康行さん:前出。

内田東:電通中部支社マーケティング・クリエーティブ局長、目白大学社会学部メディア表現学科教授。『電通を創った男たち』内藤俊夫編ならびに近藤朔編を執筆。

山本裕:電通アートディレクター。第三クリエーティブ局部長、クリエーティブプロデューサー。

秋山晶さん:「日本一のコピーライター」と断言できる日本の代表的コピーライター。ライトパブリシティ代表取締役兼CEO。詳しくはウィキペディアを。

仲畑貴志さん:前出。

梶祐輔さん:前出。


◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画をしています。
◎次回は8月7日に掲載します。

プロフィール

  • Masuda yoshio pr5
    増田 良夫

    1942年東京生まれ。東京都立大学法経学部・経済学科卒。65年電通入社。コピーライター。第四クリエーティブ局局長。電通テック常務。もっか一人の妻・七匹の猫と同居生活。坊城浩の筆名で閑文字づくりの日々を送る。

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