イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ― #12

「墓島」「餓島」と呼ばれた最激戦地から奇跡的に生還したCFO
横山一三(1)

  • Ubukata yasuhiko pr2
    産形 靖彦

冬去れば春おのずから巡るごと 苦節の時もやがて消ぬべし

 

昭和20(1945)年8月15日。その日の鎌倉はジリジリとした暑さが漂っていて、法師蝉がしきりに鳴いていたような気がする。近所の人たちが何人か集まってきて、ラジオに耳を傾けているようだった。電波状態がよくなかったようで、雑音まじりで子供にはどのような番組なのか、よく聞き取れなかったが、後になって、それが終戦ならぬ敗戦を告げる玉音放送であったことを知ることになる。

「空襲警報発令」で三角頭巾を被って、裏山の防空壕へと走ることが何度も繰り返されていた。爆音が由比ヶ浜の沖合から聞こえてくると、おびただしい数のB29が上空を埋め尽くしていた。どれくらい時間が経過したのかは定かではないのだが、2階から眺めると、横浜や東京方面の空が赤く燃えているのが見えてくる。子供心にも、慄きを感じたことを今でもはっきりと覚えている。

日本が大東亜戦争と称して開戦に踏み切った昭和16(1941)年12月8日、「開戦詔書」には次のような文言を見ることができる。「米英両国は東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿れて東洋制覇帝国の非望を逞しうせんとす。さらに帝国の平和的通商に有らゆる妨害を与え、遂に経済的断交を敢えてし、帝国の生存に重大なる脅威を加ふ。帝国は今や自存自衛のため、訣然起って一切の障礙を破砕するの外なきなり」であった。

しかし3年有余の戦闘に終止符が打たれる時がやってきた。玉音放送は、「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ」で始まっている。次いで天皇の痛酷な心情が綴られていく。「今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常に非ス爾臣民ノ哀情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ赴ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以ッテ万世ノタメニ太平を開カムト欲ス」、と。

戦いはいつの時代であっても酸鼻を極めるものである。戦地に徴兵、派遣された人間にとっては、平和な時代に育ったわれわれには想像だにできない地獄を体験せざるを得なかったことは容易に想像がつく。

本編に登場する横山一三(よこやまかずみ)もまさしくそのひとり、しかも最も凄惨な戦地に送りこまれた兵士であった。横山は大正8(1919)年に新潟で生を受けた。父君横山伊三郎は満州駐在の連隊長を経て、終戦時は陸軍輜重学校長を務めた陸軍少将である。長男の一三は麻布中学校在学時から秀才の誉れ高く、往時の日本の置かれた状況からして、その進路はきっと選択の余地なく陸軍士官学校であったろう。当時は一高三高海兵陸士といわれたように、まさに日本の若きエリートが目指す難関であるが、彼は見事に突破して陸軍士官学校第55期生となる。同期入学で親しくなった愛媛出身の大津大八郎とは不思議な縁で結ばれている。大津は連隊旗手を務めた俊英であったが、愛媛に帰省する際には、東京・神田須田町に転居していた横山宅に1泊してから東京駅へと向かったという。さらに戦後になって、二人は偶然に銀座西7丁目の電通本社ビルの階段で、社員同士として邂逅を果たすことになるのである。

陸軍士官学校時代の横山
昭和15年3月、陸軍士官学校予科卒業を記念して

横山は昭和16(1941)年、陸軍士官学校を卒業して見習士官として軍務に就き、半年間の実習を経て少尉に任官した際、祝いにと叔父の上田碩三から刀一振りを贈られていた。復員後にその上田の世話で、幸いにも昭和21(1946)年10月に電通(日本電報通信社)に職を得ることができたのである。

上田碩三は通信部門の総責任者であった。かつて外国特派員としても「パリ講和会議」「ワシントン軍縮会議」「ロンドン軍縮会議」など1919~1929年にかけて、世界の趨勢を決する枢要な国際会議を取材した経験を持っていた。さらにUP通信社との提携を手掛けた人でもある。電通通信部が同盟通信社と合流した際に常務理事となり、編集局長などの要職を兼務し、昭和21(1946)年7月、光永真三の後を承けて第3代電通社長に就任する。

上田碩三
電通第3代社長・上田碩三

戦後の日本社会は多くの都市が空爆の戦禍で焼かれ、農工業生産力や物流ネットワークが極端に疲弊していて、失業者は600万人を超えていた。食料生産はとりわけ惨憺たる状況にあり、一人当たりの主食配給量は290g、お米に換算すると二合と少々である。しかし芋や芋蔓、大豆が代用されることが多く、遅配も日常化していたし、魚も4日に一度のイワシがやっとのありさまだった。その上政府はインフレ対策として新円切り替えや預金封鎖などの暴挙に出たものだから、お金の価値は下がる一方であった。国民はタンスのなかの着物や宝飾品を持って混雑列車に乗り込み、生きるための食糧確保に死に物狂いであった。焼け跡闇市では横流しの食糧から鍋釜などの日用品、衣類やメチルアルコール入りのカストリ焼酎まで売っていたが、こうしたすさんだ社会情勢のもとで職にありつけたことを、横山は素直に喜んでいた。

政府は治安維持法や思想警察を廃止し、財閥解体、教育再生、婦人参政権の確立、労働組合組成の容認などの憲法改正の骨組みをつくり出していた。8月には経済安定本部を発足させ、さらに生活保護法を制定して国民生活の向上策を講じていた。NHKは「のど自慢素人演芸会」「話の泉」「尋ね人」「街頭録音」などのヒット番組を送り出し、「日米会話手帳」が300万部を超えるベストセラーとなって、国民は時代が音を立てて変わり始めたことを知るのである。

横山が勇んで初出社をして面接を終えると、辞令が手渡された。配属先は東京本社の総務局経理部と書いてあった。喜びもつかの間、元軍人の自分に経理担当が務まるのだろうかと、横山は不安で一杯になっていた。

(表題は横山一三の自著『巣鴨日記』所載の自作短歌。文中敬称略)


◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。
◎次回は9月4日に掲載します。

プロフィール

  • Ubukata yasuhiko pr2
    産形 靖彦

    1941年鎌倉生まれ。1964年電通入社、経理局、社長室、営業企画局などを経てSP局長、ITC室長、汐留新社屋建設推進室長、上席常務執行役員、顧問を務め2006年退社。著作は『事件出来事クロニクル』全2冊(ぎょうせい)共著など。

バックナンバー

関連記事

続きを見る
ページ先頭へ