イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ― #13

「墓島」「餓島」と呼ばれた最激戦地から奇跡的に生還したCFO
横山一三(2)

  • Ubukata yasuhiko pr2
    産形 靖彦

戦場で捨てし命と思えども 妻子を持ちてためらいのあり

 

陸軍士官学校を卒業すると、幹部候補生たちは歩兵、騎兵、砲兵、航空などの花形部隊へ任官し、将校へと昇任していくのであるが、横山は砲兵として山砲の担務を命じられた。

そして昭和17(1942)年9月、香港に駐屯していた所属の独立山砲第十連隊に命が下って、九龍の港から萬光丸に乗船、一路南方へと向かったのである。目的地は軍の機密上、明らかにされていなかった。途次大型台風に遭遇した船は、2日間も大波に翻弄されて甲板の胴間に穴があいてしまった。辛うじて沈没を免れたが、台風圏を抜け出すために燃料や水を使い果たしてしまう。そして給油のためにパラオに寄港する羽目になったという。

陸軍時代の横山
昭和17年、独立山砲第十連隊の仲間と(中央に着席)

船はやがて目的地のソロモン群島、ガダルカナル島を目指すと教えられる。しかし船中で乗り合わせた監督官の海軍大佐から、ミッドウェー島沖の激戦で空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍の4隻が撃沈され、多くの航空機、兵員を失って大敗を喫したことを聞かされる。戦史家によれば、この海戦の結果については、軍の戦意喪失につながるとしてしばらく秘匿されていたというのだが、日本の敗戦へとつながる決定的な転機になった戦いであったことは疑いがない。

戦前に「日本は国連を離脱すべきではない」との論陣を張り、戦後には共同通信社や日本新聞協会の理事長を歴任した伊藤正徳は、軍事ジャーナリストに転じて多くの優れた戦記を上梓している。ベストセラーとなったその著『帝国陸軍の最後』で、「ガダルカナルはたんなる島の名前ではない。それは帝国陸軍の墓地の名である」と記している。横山はまさにそのもっとも悲惨にして、兵員の多くを失うことになる激闘の島へと送り込まれたのである。

横山はこの島での戦闘を、極めて克明に綴っている。第1大隊所属の小隊50名を率いていたが、島のどこで、いつ、どのような行軍や戦闘を行い、どこで死傷に至ったか。米軍の攻撃状況,火器の相互比較、戦略や戦術の詳細にわたり、驚くべき記憶力を甦らせている。従軍日誌は必須であったのだろうが、横山が常務取締役を経て常任監査役になり、やがて昭和60(1985)年に顧問となった翌年、ガダルカナル島での従軍記を『餓島』として出版した。さらにこの島を撤退し、病を得て入院を余儀なくされたのだが、回復後に部隊は再編されソロモン群島のブーゲンビル島に配置替えとなる。その島での記録も『墓島』として昭和62(1987)年に著わしている。

横山は含羞の人であり無私の人でもある。現役時代は自ら軍隊時代の話をすることはなかった。求められれば言葉少なに応えてはくれたが、いつだったかポツリと、「純粋に国を思い、亡くなった多くの戦友たちのご加護で生きていられる」と苦衷に満ちた表情で話したことがある。仕事はケレン味がなく、正確無比、問題の所在を即見出して、解決策を見事に編み出していく人であった。

役員退任後に購入したワープロに向かって、晩年はこの二つの戦記を著わすことに集中していた。B5判2冊、共に300ページにも及ぶ労作に、横山の高潔な人生観が綴られている。少し照れたような表情で、「ようやく書き上げたんだ。六十の手習いでワープロに取り組んでみたのだが、なかなか進まなくてね。君に差し上げるので、暇があったら読んでみて下さい」と手渡された。私は昭和39(1964)年の入社以来、経理局で直接ご指導をいただいた尊敬する大先輩の分厚い労作を、その晩『餓島』から一気に読み始めたものだった。

横山は入社の際の配属先について、果たして自分に勤まるのだろうかと言う不安が湧いていたという。その疑念に対して、当時の吉田秀雄常務(のちの第4代社長)から、「経理を担当すれば会社の全体像が見えてくる。ソロバンができるかどうかの問題ではない。これからの時代は、金勘定が出来ないやつはダメだ」という趣旨の励ましをもらった。横山は仕事が終わった後、ソロバン塾に通うことを決意した。

そのころ、GHQ主導による「公職追放」の嵐が吹きすさんでいた。要は軍人や政治家、ジャーナリストなど20万人を超える人々や戦争協力をした企業に対して、戦勝国側からのペナルティとして日本に課した制度であった。昭和22(1947)年5月、上田社長は公職追放令により辞任せざるを得なくなった。電通も戦時の出版書籍の内容が問題視されて、指定会社にされてしまうのである。同年6月21日、株主総会に引き続いて行われた取締役会で、互選により、上田の後任として、吉田秀雄が第4代社長に選出された。

一方横山は吉田社長の秘書の中山しづ江と知り合う。多摩川堤などのデートを重ねた後に婚約、程なく結婚に至るが、夫人からも帰宅後ソロバンを教わっていったという。やがて、しづ江は翌年誕生する長男の修を宿したのである。

当時の電通は歩合制の外交と呼ばれる営業マンが大手を振っていた。社員と言うよりはそれぞれが一匹狼的な存在であった。社としての予算制度や財務などの管理体制は未だ揺籃期にあったと言えよう。折からの不景気もあって、金庫の中は常にカラッポで、経理担当役員は日夜銀行回りで資金繰りに汲々としていた。しかし軍需から民需へと移行し、平和国家の道を歩み始めた日本の経済環境は、わずかではあるが明るい兆しが見え始め、電通は早々に民間放送への準備、PRや市場調査、広告表現手法の開発への取り組みを加速していく。

昭和52年ごろ、しづ江夫人と
昭和52年ごろ、しづ江夫人と

しかしそうした日常の中、昭和23(1948)年12月21日早朝、まさに青天の霹靂というのだろうか、横山に突如大きな災禍が降りかかってきたのである。

(表題は横山一三の自著『巣鴨日記』所載の自作短歌。文中敬称略)


◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。
◎次回は9月10日に掲載します。

プロフィール

  • Ubukata yasuhiko pr2
    産形 靖彦

    1941年鎌倉生まれ。1964年電通入社、経理局、社長室、営業企画局などを経てSP局長、ITC室長、汐留新社屋建設推進室長、上席常務執行役員、顧問を務め2006年退社。著作は『事件出来事クロニクル』全2冊(ぎょうせい)共著など。

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