イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ― #14

「墓島」「餓島」と呼ばれた最激戦地から奇跡的に生還したCFO
横山一三(3)

  • Ubukata yasuhiko pr2
    産形 靖彦

大晦日我おらずとも心せよ たらちねおわす年越しの行事

 

昭和23(1948)年12月21日、台所からは妻しづ江が朝食の準備をする音が聞こえていた。当時、電通の年度決算は11月末で、業務が毎夜遅くまで続き、横山は疲れでまだ布団の中にいたが、妻から玄関に高井さんという方が訪ねてきたと告げられる。続けて「ちょっとお目にかかりたい」と仰っています、と。しかし高井の名に記憶はない。いったい誰だろう、何が起きたのかといぶかりながら、着替えを済ませて2階の寝間から玄関に降りていった。そこには見知らぬ男が立っていた。

男は開口一番、「お目にかけたいものがありますので、万世橋までお出で願いたい」と言った。しかしその男には全く面識がなく、もしや軍隊時代の先輩の使いで来たのかと尋ねても、ともかく一緒に来てほしいと言ってきかない。横山は庭下駄を突っかけたままで、やむなく男の後をついていくことにする。不安がよぎったが、そこは戦場で何度も死線を乗り越えてきた度胸で、警戒しながらも歩き出した。落ち着くためにタバコを取り出して一服付けたが、しかしわずか後ろをもう一人の男が付かず離れずについてくるのを薄々感じていた。

神田須田町の自宅から万世橋までは神田川を渡って数分の距離である。案内された建物は2階建てで、ふと目を上げると万世橋警察署の看板が目に入った。ようやく「戦犯で拘留されるのか」の思いが頭をかすめるが、しばらくして高井という人の上司らしき人が現れて、「横山さんですね。GHQ(連合国軍総司令部)から戦犯容疑で逮捕状が出ています」と伝えられる。

話を再び戦時に戻してみよう。横山は山砲の担当であった。山砲は分解できるが重量があるため、通常は軍馬の背に乗せて運ぶ。大陸では軍馬は輸送手段として頼りになるが、馬糧がなく輸送も難しい南の島には不向きで、山砲は歩兵が運ばなくてはならない。威力はあるが人力で運ぶのは至難の長距離砲だった。

日本は劣勢を打開すべく、昭和17(1942)年、アメリカとオーストラリア間の緊密な連絡路を断つことを目的として、ソロモン群島のガダルカナル島に飛行場を造成、この熱帯雨林の火山島はまさに戦略的要衝であった。けれども完成直後に米軍の奇襲を受けて奪回されたために、捲土重来を期して横山の所属する陸軍部隊にも派遣要請が来たのである。

米海軍の潜水艦網をくぐってようやくラバウル経由で島に到着するのであるが、制海権、制空権はすでに奪われていたために、派遣された兵士は凄惨を極めた状況に置かれてしまう。日本軍のおよそ10倍もの近代兵器によって装備された米豪軍の激しい攻撃下に置かれただけではなく、あらゆる補給路を断たれていたために、上陸した兵士たちは食糧、弾薬、薬品や装備品に著しく欠乏していた。マラリアなどの風土病、飢えや精神を患う苦しみに苛まれる兵士が増えていく。

島は海岸線の砂浜と椰子の木を除くと山地とぬかるみの上にジャングルが覆い被さる火山島であった。横山が率いる小隊は、軍命のままにこの島の諸所で戦闘を強いられていた。しかし圧倒的な戦力の差を実感して敗れた軍参謀本部は、昭和18(1943)年、この島へ派遣された総兵力約3万2000人に、ブーゲンビル島への「転進」と称した撤退を命じざるを得なくなる。この作戦を指揮した第8方面軍司令官今村均大将は、回想録の中で次のように記している。

「約3万の将兵中、敵兵火により斃れた者は約5千、餓死した者は約1万5千、約1万のみが救出されたのだ」。横山と同じ時期にこの島に上陸できた第1大隊442名の内、わずか78名のみがブーゲンビル島へと撤退することができた。

兵士たちは米などの糧食は皆無と言ってよく、蛇、トカゲ、ネズミ、ヤドカリ、オタマジャクシ、ウジ虫から椰子の実、雑草までを食して精神力で頑張ったのだが、多くがこの地で命を落としてしまった。無謀、無知な戦略と敵情の正確な把握を欠いて、兵站(ロジスティックス)が悲劇的にお粗末であったがために、前途有為な若者たちが犠牲になってしまった。この島が「餓島」と呼ばれる所以である。 

横山は幸いにも奇跡的に生き残って、敵艦をかいくぐって撤退先のブーゲンビル島へ行く船に乗ることが出来た。現地では入院をして盲腸の手術や体調の回復機会を与えられて、束の間の休息時間を持つことができた。しかし程なく再度戦闘地域へと赴くことを課せられる。この島での戦闘も「飢島」と同様に悲劇的な結末へと向かって行く。その島の名も「墓島」と呼ばれたのである。

本稿は戦誌をスケッチすることが目的ではない。しかし横山が軍命により赴いたこの2つの島の戦闘を語らなくては、電通人、横山一三の人物像を語ることはできないのである。

実は戦犯容疑とされた事件とは、ブーゲンビル島で起きていた。それは現地の米軍との闘いにおいて、日本軍の動向を相手側に伝える裏切り者がいて、軍はその男を捕まえて処断を加えていた。その場所が横山部隊の駐屯した山地であったこともあり、横山自身がその処断に関わっていたとする判断をされたようである。既にこの案件に関しては、在日オーストラリア軍担当官から2度にわたって事情聴取を受けたことがあった。思い当たるとしたらこの処断に関する何か新たな事実に拠るのかもしれないと思いを巡らせてみたが、横山自身は全く潔白であったし、いずれ事実が解れば事態は好転するはずだと思い直した。

昭和23(1948)年の電通は戦後不況の真っ只中、受取手形を割り引いてくれる銀行はなく、支払いに窮することおびただしい日常であった。

拘留翌日、万世橋署の担当官の好意で父と妻との面会を許されたが、なんと横山の行く先はSUGAMO PRISONであった。彼は独房に収監された。

SUGAMO PRISON
SUGAMO PRISON

(表題は横山一三の自著『巣鴨日記』所載の自作短歌。文中敬称略)


◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。
◎次回は9月11日に掲載します。

プロフィール

  • Ubukata yasuhiko pr2
    産形 靖彦

    1941年鎌倉生まれ。1964年電通入社、経理局、社長室、営業企画局などを経てSP局長、ITC室長、汐留新社屋建設推進室長、上席常務執行役員、顧問を務め2006年退社。著作は『事件出来事クロニクル』全2冊(ぎょうせい)共著など。

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