イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ― #15

「墓島」「餓島」と呼ばれた最激戦地から奇跡的に生還したCFO
横山一三(4)

  • Ubukata yasuhiko pr2
    産形 靖彦

いずくにて踏みたがえしかわが道は 茨の草のはてしなきかも

 

横山は、「土壇場にきてからの不始末がないように配慮する」と戦場で自らに課してきたことを改めて思い出していた。戦犯に指定された厳粛な現実に直面していたが、南支からガダルカナル、ブーゲンビルへと、いくつかの戦闘で多くの戦友や部下を失い、生きて日本の土を踏むことができるとは全く思いもよらなかった。

捨て去るべき命であったことを思えば、どのような逆境や不運があっても、落ち着いて対峙すべきであろうと決意を新たにする。身重の妻しづ江が気懸りではあったが、万世橋署の若い刑事が、自宅に行って逮捕事実を家族に知らせてくれることになり、「何か伝言はありますか」と親切に聞いてくれた。

そこで「戦犯容疑で逮捕された」事実のみを知らせてくれるように頼んだ。やがてその若い刑事が署へ戻ってきて、上司に「奥さんを連れてきましたが、面会をしてもらってもいいですか」と訊くと、「構わん」の一言。日本人同士の温かい好意があって、父と妻が着替えとタバコを持参して部屋に入ってきた。妻には前回の事情聴取の時と違って、今回は長くなるだろうが、またとない修練の機会であるからお互いに頑張ろうと話をした。

警視庁へ護送される際に署の車に乗っていくか、それとも都電で行くかと聞かれて、躊躇なく「都電でお願いしたい」と答えた。しばらくは街の様子も見納め、という思いからである。警視庁では身許確認の後、大友警部補から「今日中に巣鴨に入ればいいのだから、ゆっくりしていってください」の丁寧な言葉を掛けられ、翌日は署のジープで須田町の自宅に立ち寄ってくれた。この警部補の破格の扱い、情味によって、しづ江が横山の衣服を持ち帰るという事由をこしらえてくれて、ジープに同乗を許されて拘置所に向かうことになる。

この日の午前中に父としづ江が電通に行って、事情を説明してくれたと聞く。門口で送ってくれた父母の立ち姿と涙を見せずに気丈に振る舞う妻がまぶたに焼き付く。門前でしづ江がピースに火をつけてくれて、その一服を思い切り吸い込んで、横山はゆっくりと門をくぐり、やがて2階の独房へと収監されたのである。師走の22日のことであった。

空襲を避けるために黒い迷彩色に塗られていた電通本社ビルは、幸いにも焼失を免れていた。

終戦の日、昭和20(1945)年8月15日正午、2階に集った上田社長をはじめとした数十名の役員、社員は玉音放送に聞き入っていた。戦いに終止符が打たれ、愕然、茫然自失する会場で、ひときわ大きな声で「これからだ」と叫んだ男がいた。それは常務取締役の吉田秀雄であった。戦時下と違い、平和な時代こそ社業を発展させることができると吉田は固く信じていた。

迷彩を洗い落した銀座の電通本社ビル
迷彩を洗い落した銀座の電通本社ビル

広告媒体の中核であった新聞は、原料パルプや石炭の不足からタブロイド判となり、雑誌もわずか30ページ程度で、広告面はスペースが極めて少なくなっていた。吉田をリーダーとして新聞料金の公定化を目指して、公正、透明な取引環境づくりを急いで業界活性化を意図したが、これがまとまるのは昭和23(1948)年になる。

昭和22年、社長就任の頃の吉田秀雄
昭和22年、社長就任の頃の吉田秀雄
 

吉田は意気軒昂であったものの、経営環境は依然として厳しい。苦境を脱して社の近代化と発展を目指すためには、有能な人材の確保が必要だと考えて、終戦時から積極的に人材確保にあたるようになる。特に追放解除された人や元軍人、外地からの引き揚げ者を中心にリクルートをしていった。終戦の年、昭和20(1945)年時点の社員数は352名、次いで翌年以降は429、655、902名と業容拡大を企図しつつ増員をしていく。

こうした経済環境下では経営管理上、資金繰りが社の生命線となる。インターネットバンキング時代と異なり、債権回収の基本は手形、小切手、現金であった。回収係と呼ばれていた経理部員が、取引先を訪問して広告代金を受け取り、翌月に媒体社などへ支払うのが基本である。したがって、債権回収担当は信用のおける者でなくてはならない。身許が確かな元軍人は最適な回収担当であったから、復員して経理部に職を得た人も多かった。横山も経理部に配属されていたので、電通の財務環境をよく把握しつつ、海千山千の男たちを巧みにマネージしていた。ブーゲンビル島では大尉として砲兵隊の中隊長に任ぜられ、食料補給が全くない中で、野豚、野ネズミ、蛇、蜘蛛、ゾウリ虫や野草を食し、敵弾をかいくぐって甘藷や南瓜を開墾して生き抜いてきただけに、そのリーダーシップの力量は周囲から尊敬の念を以って迎えられていたのである。

横山のマネジメントの基本理念は、父から教示された「人生の機微に通じること」であり、かつての中隊長時代に掲げた「正しく」「強く」「朗らかに」である。人が逆境にあって力を発揮するためには、リーダーたる者が持つ目的意識とそれを達成しようとする部下への心遣いであることを、彼は知悉していた。

当時経済復興を目指す政府は、産業分野を甲、乙、丙に三分類していた。主要製造業などは甲、新聞社は乙に分類されていたが、広告代理業は丙ランクであったので運転資金の銀行融資は受けられず、吉田は電通社長としての立場ではなく、広告代理業組合理事長として、日銀や大蔵省への陳情を繰り返していた。新聞社の台所を預かる広告代理業は、アメリカの先例のように、これからの日本には欠かせない産業分野であることを必死に説いて回っていた。この間に社は危うく不渡りを出しそうになることもあり、証券会社などへは広告料の前払いを頼んで凌いでいた。

給料の遅配や分割払いは日常化していたが、吉田の3年にわたる努力が実って、ようやく日本勧業銀行(現みずほ銀行)が融資を認めてくれて息をついたのである。本社ビル1階が、一時期日本勧業銀行の銀座出張所となり、またメインバンクとして、以降両社が良好な関係を築いていく契機ともなった。

(表題は横山一三の自著『巣鴨日記』所載の自作短歌。文中敬称略)


◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。
◎次回は9月17日に掲載します。

プロフィール

  • Ubukata yasuhiko pr2
    産形 靖彦

    1941年鎌倉生まれ。1964年電通入社、経理局、社長室、営業企画局などを経てSP局長、ITC室長、汐留新社屋建設推進室長、上席常務執行役員、顧問を務め2006年退社。著作は『事件出来事クロニクル』全2冊(ぎょうせい)共著など。

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