イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ― #16

「墓島」「餓島」と呼ばれた最激戦地から奇跡的に生還したCFO
横山一三(5)

  • Ubukata yasuhiko pr2
    産形 靖彦

はからずも闇路のなかに見し明かり 幻になりてまたも消えぬる

 

横山は昭和24(1949)年の元旦を拘置所の独房で迎えることになった。思い起こせば、日本に帰還できたのは昭和21(1946)年3月10日、偶然にもかつての陸軍記念日である。ブーゲンビル島の南にあるファウロ島に移された後、甲板が破壊されて修理の後も生々しい空母葛城が迎えにやって来た。迎船を目にした時に、皆が感極まって叫び声をあげたものだったが、船が島を離れる際には、誰しもが押し黙っていた。南の島々や海底に残していかざるを得なかった英霊たちの無念さを思い、全員が黙して甲板に佇んでいたことが昨日の出来事のようである。しかし現実は、ようやく職を得て結婚ができ、子供が生まれるというのに朝5時起床、6時朝食の独房生活が始まっている。散歩やVISITと呼ばれる他の房への訪問、碁、将棋や読書も認められてはいたが、いつまでたっても審問一つなく、これからどのような扱いを受けるのかの不安、焦燥の日々が続いていく。その内に月一度の家族の面会が許されるようになり、妻しづ江から、拘置中も留守宅に社から給与が届いているのを聞いて、吉田の温かい配慮にこの厚恩を決して忘れまいと誓うのである。横山家の窮状を伝え聞いた吉田は、さらに父伊三郎にも電通製版所の仕事を提供する気配りをした。

しかし悲しい知らせもやって来た。入社の労をとってくれた叔父の先代社長、上田碩三が奇禍に遭って亡くなったのである。上田は親友のUP通信社副社長・極東支配人のマイルス・ボーンと千葉県浦安沖へ鴨猟に出かけたが、沖合で乗船が転覆して、二人とも不帰の客となってしまった。訃報を聞いても審判を待つ身ゆえに、何もできない自分がおぞましく、恨めしかった。

上田社長遭難の記事
上田社長遭難の記事

南の島からは生きて帰ることはなく、おそらく遺骨もどこかへ散じてしまうだろうと思っていた。そこで満期で日本に帰還する軍医に託した妹夫婦宛の長文の手紙に、形見にと思い、髪を切って添えたことを改めて想起していた。しかし強運にも生きて帰国することができて家族を得た今は、生きたい、生きねばと言う沸々たる思いが湧いてくる。既に半年を超える拘留となっていた。

6月18日、電報が来たという知らせがあって手にすると、「十八ヒ四ジ オトコウマルボ シトモケン」とあった。長男修(おさむ)の誕生であった。しかし極東軍事委員会の早期結審勧告も空しく、オーストラリア政府は依然として未決拘留のまま審問を始めようともせず、関係者とされた47名は拘置所に留め置かれたままである。横山は短歌や謡、英会話学習にも取り組んで、獄での無聊な時間をまぎらわせようと努めていた。月に一度と決められている面会に、しづ江が修を抱いて訪ねてくれることが、生きる希望を繋いでくれていた。

昭和25(1950)年の元旦も巣鴨で迎えることになった。しかしオーストラリア政府は、戦犯容疑者を自国のマヌス島へ移送して、そこで裁判を始めると言うではないか。一体どうなるのかの疑念ばかりが募っていた矢先に、拘留者の中から93名がマヌス島行きと決まった。暗澹たる思いであったが、横山は残った関係者の47名共々、今回の移送からは免れていた。弟の二郎や妻から関係当局への嘆願は繰り返し行なわれていたし、自らも不当な拘留に対して、マッカーサーGHQ総司令官宛の嘆願書も提出している。しかし引き続いて自分もマヌス島へ移送となる場合を想定せざるを得ず、その際は電通から支給されている給与を返上すべく、妻にも話をして賛同をしてもらい、これまでの謝意と共に吉田社長宛への礼状を認めて投函した。既に覚悟はできていた。

しかし横山は強運の人である。いやむしろ嫌疑が晴れたと言うべきであろう。2月2日、急転直下、残されていた47名に釈放通知が伝えられた。長く惨めな思いの暗いトンネルに曙光が差してきた。書き続けてきた従軍戦記や手紙、ごくわずかな身の周り品を整理して、翌朝の出所を待ったのである。その心境の一句に、「明暗をわけてさだめは厳しかり 弥生三日に我解かれたり」がある。

実は横山が獄中から出した手紙への返書を既に吉田は認めていた。しかし2月1日付の新聞報道で突然の釈放を知った吉田は、投函せずにその手紙をしまっておいた。出社してあいさつに赴いた横山に、ねぎらいの言葉と共に吉田はその手紙を笑いながら見せてくれた。「後のことは何も心配しなくてよい。裁判になったとしても、しっかりとやって来なさい」との励ましが書いてあった。

昭和25年、創立50周年を記念して東京本社全社員で記念撮影
昭和25年、創立50周年を記念して東京本社全社員で記念撮影
 

デスクにはソロバンと赤青のインク、付けペンが置かれている。当時の経理マンの三種の神器である。世情は少しずつ安定を取り戻し、電通は吉田の主導で民間ラジオ放送の開局に向けて、新聞各社との詰めに入っていた。民間テレビ放送については、正力松太郎を中心に構想が練られていた。こうした新たなメディアの胎動を予知していた社は、営業部門の組織改革と共に、総務局から経理部門を独立させて新たに経理局をつくり、横山はそこでアメリカ式簿記を知る。いうところの企業会計原則である。継続性と額面価値をベースにして、収益と費用の対応を明らかにすること。資産計上や減価償却には公正市場価格を用い、期間原則により、客観的証左に基づく財務諸表を作成して公表しなくてはならない、という制度であった。

横山が社に戻った昭和25(1950)年には朝鮮動乱が勃発している。繊維や製紙、砂糖業界が潤い始め、特需景気も3年ほど続いて、その間の電通の年間売上高は100億円に迫っていた。しかし動乱終了と共に物価高騰や輸入増で国際収支は赤字に転落して、株式の大暴落が起き、日銀の金融引き締めもあって企業倒産が続発するようになる。電通も資金繰りに苦吟していたが、実は大手の広告主にとんでもない倒産劇が起きていた。

(表題は横山一三の自著『巣鴨日記』所載の自作短歌。文中敬称略)


◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。
◎次回は9月18日に掲載します。

プロフィール

  • Ubukata yasuhiko pr2
    産形 靖彦

    1941年鎌倉生まれ。1964年電通入社、経理局、社長室、営業企画局などを経てSP局長、ITC室長、汐留新社屋建設推進室長、上席常務執行役員、顧問を務め2006年退社。著作は『事件出来事クロニクル』全2冊(ぎょうせい)共著など。

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