イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ― #17

「墓島」「餓島」と呼ばれた最激戦地から奇跡的に生還したCFO
横山一三(6)

  • Ubukata yasuhiko pr2
    産形 靖彦

うらら陽に老葉若葉も輝きて 梢をそよぐ春の風吹く

 

戦後に一世を風靡し、女性たちを虜にした化粧品があった。東の平尾賛平商店が作り出した「レートメリー」、西は中山太陽堂の「クラブ洗い粉」である。電通と中山太陽堂との契約は手形取引であったが、折からのリセッションで昭和29(1954)年6月、同社は経営が傾いたために、電通がもつ売掛債権の8000万円を棚上げすることを要求してきた。その時点の社は、前年10月以降の半年間に1億円を超える未収債権を抱えていた。この年の電通の取扱高は月額11億円程度、年額131億円で、月当たりの取り扱い利益はおよそ1億7000万円であった。この内の8000万円の棚上げは2300名の社員を抱えた社にとっては死活問題である。先方社長の言い分は、借入先の銀行からの担保差し出し要求を断っており、工場関係の資産も担保にしておらず、無傷であるからぜひ棚上げに協力して欲しい、であった。資産調査に赴いた経理局員の報告に拠れば、工場資産は税金滞納による差し押さえ状態であり、銀行からは社長の私財を担保にすでに1億円の融資を受けていたことが判明。あまつさえクラブ化粧品の商標を急遽会社から社長個人に移管して保全を図っていたことも分かった。報告を聞いた吉田は、得意先とはいえ先方の不誠実さと我執とに硬化して、大阪地裁に同社の破産申請を行わざるを得なくなる。横山は問題解決に取り組むに当たって、相手が大事な得意先であっても、債権者電通としてのスタンスをはっきりさせておく必要があると感じていた。幸いなことに、東京本社扱いの4000万円は回し手形であったので、最悪の不渡りは免れて、結局は破産申請を取り下げて、繰り延べの支払いで決着する。しかし暮れのボーナスは主事、社員の若手には支給されたものの、管理職は返上せざるを得ず、全社員の昇給も停止される瀕死の財務状況を迎えてしまっていた。

吉田は社員を前にして「この国全体が当面している滔々たる大勢にはいかんとも抗し得ない。ただ我々は全力を尽し、非常な努力をなし、断じて負けじの決意を固めていく他はない。それを持ってしても、なおかつ電通が昭和30年の元旦を迎えることが出来ぬとしたら、最早それは天命であろう」と悲痛な檄を飛ばしていた。

危機乗り切りを社員に訴える吉田社長
危機乗り切りを社員に訴える吉田社長
 

そして吉田はこれまでの経緯を詳しく記した資料の作成を横山たちに命じて、これを関係先に配布して社と広告代理業の立場の理解促進を訴える配慮も欠かさなかった。横山はこの事件の教訓から、無担保信用取引の是正、信用設定などの債権管理と回収条件の改正などの具体策を建案していく。

昭和30(1955)年に入り、政府の経済政策も不況脱却へと舵を切って、財政投融資が増え、鉄鋼業などの基幹産業に勢いが出てきた。民放テレビもプロレスやプロ野球、大相撲などの魅力的なコンテンツの効果と受像機の値下げで勢いをつけ、新聞の増ページや雑誌の創刊も相次いで、社も元気を取り戻して147億円の取扱高をあげていた。社は資本金を倍増させて9600万円とし、社名を世間が呼んでいた通りに日本電報通信社から「電通」へと変更した。

昭和30年、出張先の広島支局で。前列右が横山
昭和30年、出張先の広島支局で。前列右が横山

昭和31(1956)年の経済白書では、「もはや戦後ではない」のキャッチフレーズが踊り、やがてほぼ全産業に春がやってきて「神武景気」と称されるようになる。この時期を契機として、社業は成長軌道に乗り始めたのである。吉田は決して手を緩めることなく、社員が広告人として成長していくための情報交換、勉強の場として、取引先に先駆けて毎朝8時から局長以上は4階で最高幹部会、部長は各フロアで、副部長は8階でモーニングコーヒーをすすりながらの会議、打ち合わせを続けさせていた。日本経済は流通革命や大量消費の時代を迎え、社もAE制導入やマーケティングやクリエーティブ、国際広告部門を充実させていく。吉田はさらに昭和33(1958)年に8億円をかけて大阪支社の新社屋を落成させ、名古屋、九州、北海道支社も新増築をしたものだから、社の台所は相変わらず資金繰りに追われていた。吉田のリーダーシップが社の発展のエネルギーそのものであったのだが、吉田は世話になった相手先に筆で宛名書きをして贈り物をする癖がある。ふさわしくない格好の社員にも、背広から靴まで贈って身だしなみを整えたものだった。社長から経理部門に対して「特別プロジェクト」への出金要請が頻々と、しかも待ったナシやってくる。吉田の要請に局員は質問などできずにいたが、横山はその仮出金の精算処理に当たっても、経理マンの立場から意見を率直に言って吉田を苦笑させた。「融通の利かない奴だ」と思われていたと、後年横山は笑って語っていた。

吉田の神がかり的な牽引力と実行力は、社業が発展を遂げていく間に、ひそやかにその健康を蝕んでいった。体力の衰えに鞭打って走り続けた鉄人に、厳しい現実が突きつけられることになる。昭和37(1962)年10月、大阪支社で行われた全体会議の席上、吉田は「世界一の広告建築、広告殿堂を創ることは、世界一の広告会社になることだと考えている。私は、私の命を捨ててでも、築地本社屋の完成を目指したい」と気魄を漲らせていた。しかし参加した社員の目には、療養後の社長は、誰がみてもその生命力に陰りが差していた。出席者全員の総意で、社長宛に静養して戴きたい旨の手紙を送った程である。

最後となった事業予算会議・全体部長会議での訓示(昭和37年10月2日、大阪支社)
最後となった事業予算会議・全体部長会議での訓示(昭和37年10月2日、大阪支社)
 

昭和38(1963)年1月27日、吉田は本社屋竣工を見ることなく旅立った。青山葬儀所の社葬には1万1000人余の会葬者が吉田の死を惜しんだ。その悲願は後継者の日比野恒次が継承し、昭和42(1967)年に竣工をみるのである。

 横山は昭和39(1964)年に経理局計算部長となる。昭和34(1959)年に新卒第1期入局の安藤孝四郎(のちに常務取締役)が部下にいた。

(表題は横山一三の自著『巣鴨日記』所載の自作短歌。文中敬称略)


◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。
◎次回は9月24日に掲載します。

プロフィール

  • Ubukata yasuhiko pr2
    産形 靖彦

    1941年鎌倉生まれ。1964年電通入社、経理局、社長室、営業企画局などを経てSP局長、ITC室長、汐留新社屋建設推進室長、上席常務執行役員、顧問を務め2006年退社。著作は『事件出来事クロニクル』全2冊(ぎょうせい)共著など。

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