イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ― #18

「墓島」「餓島」と呼ばれた最激戦地から奇跡的に生還したCFO
横山一三(7)

  • Ubukata yasuhiko pr2
    産形 靖彦

雪雲の吹きはらわれて空澄みぬ よき代のきたるしるしなれかし

 

経理局計算部は、得意先への請求、媒体社などへの支払業務部門である。

新卒の新入社員はすべて計算部に配属となり、それまで一度も手にしなかったソロバン相手にひたすら計算業務に取り組む。新卒1回生の安藤孝四郎以下毎年1~3名の新入社員が横山の部下になるのだが、全員すこぶる元気ではあるが計算業務は先輩社員に比べて著しく劣っていた。

昭和38年頃の本社経理局
昭和38年頃の本社経理局

したがって全員が枕を並べて毎夜10時過ぎまでの残業となる。安藤を頭に据えて、残業を終えてから流行のボーリングや飲み屋通いをするものだから、横山は頭を悩ませていたに違いない。軍隊時代にはあり得なかった部下の行状に対して、しかし横山は寛容であった。われわれは一度たりとも叱責されたことがなかった。しかしその温かい眼差し、優しい物腰を感じつつも、畏敬の念を禁じ得なかった。

当時の経理局員の年末は大晦日の夜遅く、回収係が確保してきた債権額を集計して、全社の本年度取扱額を確定し、待機していた役員に報告してから乾杯となる。そして翌元旦に恒例の新年仕事始式に参加した後、安藤以下、初詣の前に大挙して横山邸に向かうのが慣わしになっていた。母上やしづ江夫人の手料理をご馳走になり、大騒ぎをするのだが、主は終始にこやかに盃を交わしてくれた。女子社員には、母上が前年に訪問した際の一人一人のイメージを覚えておられて、毎年その社員にふさわしい色糸使いの手造りの手毬を贈って下さった。横山の優しさのDNAを目の当たりにしたようだった。

東京オリンピックを期にして、東名高速道路や新幹線などの社会インフラが整備されてGDPを押し上げていたが、昭和44(1969)年、横山は部長兼務のまま経理局次長となり、昭和48(1973)年10月に総務局長、50(1975)年10月には経理局長に就任して、社の財務や総務などの業務管理全般の責任を担う立場となっていく。業容拡大に従ってEDPS、つまり業務管理に関する大量のデータの定例、定期的処理を迅速に行う必要が出てきた。GE社の大型電子計算機を利用しての意思決定や情報検索を迅速化できるシステム構築の陣頭に立っていくのである。現在ではパソコンでできる業務であるが、当時はプログラムの作成にも時間が掛かり、エラーが出ようものなら、その修復に苦心惨憺して、費用対効果も疑問視されることもあった。しかし今でいうところのIT化が業務改革の尖兵になることを横山は決して疑わなかった。

振り返ると、岩戸景気から3C(カー、カラーテレビ、クーラー)がもてはやされていざなぎ景気を経た後に、ニクソンショックや石油危機の逆風にもさらされていた。昭和48(1973)年の中畑義愛第6代社長の誕生時はまさに石油危機のさなかで、厳しいリセッションに見舞われてしまった。総務局長に就任した横山に、中畑から経営危機を救うための徹底した経費節減の厳命が下る。横山はその峻厳な一面を持って臨み、ボールペン1本にまで厳しく目を光らせて、備品は社員一人当たり、デスクの引き出しに入る範囲で支給する徹底ぶりであった。正月恒例の「電通年賀会」も休止をし、各界のVIPを集めて開くゴルフコンペ「でんかっぷ」も中止の止むなきとなる。しかし横山はこの苦境期にあっても、前任局長の佐々木富雄(のちに常務取締役)時代からの懸案であったOB、OGの「社友会」が社の株式を持つことにより、先人が社を支え、将来も社と共にあることを願っての組織づくりをまとめあげていた。

昭和52(1977)年6月、中畑は横山を呼んで取締役への就任を伝えた。席上横山は「私で大丈夫ですか」と答えると、同席した専務取締役の田丸秀治(のちの第7代社長)から「これは命令だ」と一喝されてしまった。「遙けくも来つるものかな」の感慨と謙虚さから出た一言ではなかったろうか。以後横山はCFOの立場で社を見事に牽引していくのである。

取締役に就任した横山
取締役に就任した横山

横山は青春の多くを軍隊規律の下で過ごしたためか「息子には好きなようにさせたい」と日ごろから語っていた。長男修によれば「夜中にうなされて、飛び上がって叫ぶこともあった」そうである。戦争の地獄絵の生体験者のみが知る仲間への痛惜の声であったと思われる。横山のぶれない姿勢と穏やかさの源泉を改めて教えられた。晩年の横山は、62歳で運転免許を取って、スポーツタイプの車を飛ばすヤンチャなところもあった。野尻湖の山荘への家族ドライブは5時間を超えるロングドライブであったが、苦にしないでしばしば訪れている。

計算部時代にはゴルフをご一緒させていただくこともあったが、そんなある日、浦和ゴルフクラブで隣のコースからスライスボールが飛んできた時のこと、横山はすかさず「伏せ」と大声で怒鳴った。つい昔の癖が出てね、の照れ笑いの顔が懐かしい。はにかみの笑顔は女性社員からも憧れの的だった。

役員就任を経理局の女性社員に祝われる
役員就任を経理局の女性社員に祝われる

意外に知られていない事実は、昭和27(1952)年、横山が電通労働組合の東京支部長になったことである。わずか半年の後に管理職に登用されたために退任するのだが、その間に社はじまって以来の労使協約の締結に尽力をした。昭和40年代に社の労働組合はストを敢行したが、計算部で時間外業務をしていた社員を見つけた組合幹部が「協定違反だ」とまくしたてると、横山も「上司に向かって何を言うか」と返す。組合側も「スト中は上司も部下もない」とやり返すと横山はすかさず「その通り」と返したので、その場は見事に収まって笑いが起きた。横山は気合の人であり、またユーモアを解する人でもあった。

勇退後は日本酒の晩酌を楽しみ、碁や俳句、短歌を嗜んだが、何よりも友人たちとの語らいと4人の孫を愛してやまなかった。しかし平成22(2010)年2月12日、横山は清爽な東風梅の香りと愛妻、家族に見送られて旅立った。

(表題は横山一三の自著『巣鴨日記』所載の自作短歌。文中敬称略)

〈 完 〉


◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。

プロフィール

  • Ubukata yasuhiko pr2
    産形 靖彦

    1941年鎌倉生まれ。1964年電通入社、経理局、社長室、営業企画局などを経てSP局長、ITC室長、汐留新社屋建設推進室長、上席常務執行役員、顧問を務め2006年退社。著作は『事件出来事クロニクル』全2冊(ぎょうせい)共著など。

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