電通を創った男たち #16

電通電波ビジネス黎明期の牽引者

木原通雄(15)

  • Okada
    岡田 芳郎

天性の広告人の英才を惜しむ

 

昭和29年の運動会で

何処でも才を生かす 総務局長 市川敏

木原君とのつきあいは、電通という共通の場に入ってからで、初対面はたしか、箱根、俵石閣の湯ぶねの中であったように思う。二十七年の秋だから木原君は入社半年の頃であろうか。ちょうど第一回「でんかっぷ」が仙石原で催された時、僕は病後でまだクラブは振れないし木原君もその頃ゴルフなど考えてもいなかっただろうし、二人とも専らお客様の接待係だった。その折、裸の雑談ではからずも木原君と僕が少年時代鬼ごっこをしたり、あるいは一度や二度喧嘩位したかもしれない仲だったということに話がはずみ、とみに親近感を深めたものだ。

木原君も僕も郷里は山口県、木原君の生まれた下松という町には叔母がいたので僕は小学校の頃、季節の休暇はいつもそこで過ごすことにした。僕の従兄弟達はどれも木原君の喧嘩友達であったというから僕も一役買ったであろうというわけ。もっとも木原君は僕より五つも年少であったから、その頃はまだ洟垂れ小僧であろうし、後年のあのスマートさの片鱗もなかったにちがいない。

ヘーゲル哲学の第一人者、松村一人氏もやはりこの町の出身で木原君にとっては小学、中学の先輩である。あまり人を褒めない木原君もこの哲学者だけはいつも口を極めてその頭の鋭さを絶賛したものだ。少年時代からよほどこの人の感化を受けたものと思う。

政治評論家としての木原君はすでに定評があるが経済論をやらしても、絵画,漢詩、文学を語らしても薀蓄の深さを示し、その博覧強記には常常感服させられた。そんじょそこらの生噛りの知識を器用にこなす薄っぺら文化人とは本質的にちがったものを木原君は持ち合わせていた。木原君には哲学の素地が松村氏に負うところ大であったかどうかはついに聞き洩らしたが、その影響を受けたことは否めない。

木原君のように学問の基礎があって、しかもあれほどの知恵才覚に富んだ人材は何処の場に働かしても立派な業績を挙げる人だった。映画のプロデューサーをやらしてもずば抜けた作品を作ったであろうし、方面を変えて左翼指導者としても必ずや総評高野氏以上の仕事をしたであろう。電通に於いてももっとフリーな立場に置いて、木原君の持ち味を縦横無尽に発揮させたいところだったろうがそれを待たず忽然と逝ってしまった。

僕が木原君に威張り得たものはゴルフだけだった。自慢にもならないことだが、それでもこんなに早く死んでしまうのならせめてハンディ二〇位にはさせたかった。

四十六歳、この若さで死ぬとは何としたことか、僕はお通夜のとき木原君のお母さんにお目にかかり胸に迫ってお悔やみの言葉も出なかったが、この母上を残して先立つとは、木原通雄、何たる不幸者ぞと遺影に向かって腹立ちを覚えた。

――満州国弘報処長として活躍した経歴をもつ市川は、苦労人であり、人間通であり、人格者として電通社員の信頼を集める人だった。さすがに彼は木原の能力の幅の広さ、深さを良く見ている。フリーな立場に置いて持ち味を発揮させたかったと記している。

もし木原があと10年生きたら、テレビ事業を軌道に乗せたのち、もっと広い視野で電通のビジネスをダイナミックに動かしたに相違ない。そのことが惜しまれる。

永久に生きる業績 ラジオ・テレビ局次長 門真欽松

まったく忽然として永久に小柄なしゃれた姿を消してしまった―その前夜挨拶を交わしながら忙しげに約束の席に出かけていった木ィさんが、それからわずか八、九時間の後に幽明境を異にするに至ったとは! あれ程生への執着の強かった野心満々の彼が、このようにアッケなく四十六年の生涯を閉じようとは! 遺骨につきそって帰ってきた峯間君が、“骨にするには本当に勿体ない位だった”と心底木ィさんの死を悼んだ。

木ィさんが新聞記者、評論家としての文筆生活を捨てて電通に入社したということは、彼にとって一生涯の大きな転機であったであろう。“彼の生活に大骨がはいった”とは,木ィさんを知るもののその後の言葉であったが、彼自身はこの新しい仕事に旺盛な興味と情熱を打ち込み、それを通して自己の将来に大きな野心をもつに至ったであろうことも察しられる。

木ィさんは天性の広告人であった。その不敵な面構え,図太い態度の反面、機を逸せぬ俊敏な頭脳の働き、健康で几帳面な性格、加えるに筆まめであり読書家でもあったことは、優れた広告人としての素質を物語っている。彼のそうした一面を人との応対テクニックに見るのであるが、これは誠に洗練されたもので、一面識の間柄であっても百年の知己とかわりなく、またそれが少しも不自然でなかった。

また非常に筆まめなことでは知友関係の吉凶禍福に機を逸せず、それぞれの挨拶を済ませていたことで、これは常人のなかなかなし得るところではない。その几帳面で物にこだわらぬ態度は、単なる手紙の往復からでも数多くの深い交友を得られたであろうし、事実その交友範囲の広かったことは会葬に見えた各界の人々によっても知られたことである。

鼎談

総ての人に深く惜しまれつつ、英才を秘めたまま木ィさんは逝った。愈々円熟した彼の手腕に期待するところ多く、その方面でもこれからの人であった。社としてもかけがえのない人物であったし、吾々としてもまた不敏な自分を鞭打つための無二の目標であった。しかし木ィさんの今日まで築き上げた仕事とその精神は生きている。吾々は彼の踏み越えきたった途を継がねばならぬ。それは木ィさんの霊を慰める唯一の途でもあるのだ。

――同僚として木原と机を並べていた人らしく木原の日常を観察している。まめでタイミングのいい仕事ぶり、広い交際が分かる。周囲を引っ張る男だったのだ。

 

(写真上)昭和29年の「第10回電通大運動会」で“自転車のろま競争”に参加
(下)森永製菓・稲生平八常務とラジオ東京・今道潤三編成局長との対談でも司会を務めた

(文中敬称略)

プロフィール

  • Okada
    岡田 芳郎

    1934年東京都生まれ。早大政経学部卒。56年電通入社。コーポレート・アイデンティティ室長、電通総研常任監査役などを務め、98年退職。著書に『社会と語る企業』(電通)、『観劇のバイブル』(太陽企画出版)、『日本の企画者たち~広告・メディア・コンテンツビジネスの礎を築いた人々~』(宣伝会議)など。

バックナンバー

関連記事

続きを見る
ページ先頭へ