電通を創った男たち #17

電通電波ビジネス黎明期の牽引者

木原通雄(16)

  • Okada
    岡田 芳郎

溢れるばかりの豊かな人間性を惜しむ

 

終戦の詔勅

打てば響く頭脳 嘱託 白川威海

九州への旅路の途、大阪に寄ってはじめて木原君の凶報を知った。鉄棒でゴツンと頭をやられたような衝撃で茫然としていたが、しばらくして我に返ってからは何ともいえない悲しみと名残惜しさがこみ上げてきた。

木原という明敏な政治記者が報知新聞にいると聞いたのは昭和の初期だった。それから以後、久原房之介、風見章、近衛文麿などという当時の華やかな政治家の動きに伴って、国民新聞の木原記者の名がしばしば吾々記者仲間で話題になった。というのは、木原君が卓越した政治記事を物するという以上に、同君は上述のような政治家のふところに深く食い込んで、ある程度政治の動きにも関与するということが記者仲間に色々取沙汰されたのだと思う。

戦後は文芸春秋始め色々の雑誌や新聞に気の利いた達筆で政治評論を書き、最近では押しも押されもせぬ一流の政治評論家となると共に、一昨春電通の社命を帯びて、アメリカのラジオやテレビ事業を視察して帰ってからは、我が国でちょっと比類のないラジオ・テレビ通となってしまったことは、人の知るところである。

弁舌はさわやかだった。文章を書かせればたちどころにソツのない名文を物することができた。大東亜戦争の終戦詔勅のもとの原稿は実に木原君が筆をとったものであることは知る人ぞ知る話である。

頭脳は電光の速さで動いた。打てば響くとは彼の事であった。この天成の才人がまた非常な勉強家であったことを知る人が案外少なかったのではなかろうか。学識の深さは近頃まれだといってよい。そしてそれは専門の広告宣伝の英米書はもとより、文学、哲学など実に広い範囲にわたっており、しかも彼がこれらの書物を実際よく読んでいるのを知って、いつも感嘆させられたものである。

こうして私は彼とは年齢において遥かに上ではあったが、本当に彼から色々と教えられるところが多かった。私が電通の世話になるようになったのは、彼木原君の口利きによるものであることを後で他から知らされて、彼の陰ながらの親切にいつも心から感謝していた。何かにつけて私には非常に頼りになる人物だった。こうした頼りになる、あれだけの才人はもう二度と吾々の周辺には現れてこないと思うと、ますます追慕の気持ちをおさえることができない。

ある時、グラフ雑誌に紹介された一流政治評論家の写真の中に木原君のも掲げられていたが、木原君は内心その自分の写真が気に入ったらしく、私に向かって、“この馬鹿づらを見てくださいよ。この顔を見れば、私は世間でいうほど悪党じゃないことがわかるでしょう”といった時の木原君の晴ればれした顔が永久に忘れられないものとして残っている。

――大阪朝日新聞、毎日新聞の記者だった白川威海は、敏腕な政治記者だった木原の業績を良く知る人物だった。木原の名を歴史に止める終戦詔勅の文の執筆についても書き記している。彼が名文家であるだけでなく、面倒見のいい,親切な人間だったことが分かる。

商放完成を誓い合う 文化放送業務局長 中島幸基

同郷、同年、同学、同職、しかも同じ社で働くことになって、仲良しにならなかったらどうかしているわけで、私が木原さんと特別に気が合って、公私ともに何でも相談相手になって貰ったのも、これだけ同じ条件が揃っておれば当然であろう。その木原さんがまったく突然亡くなられたのである。二月三日、その悲報を耳にした時、滂沱たる涙を拭うこともせず、私はじっと四階秘書室の応接で机の上を見つめ続けた。そしてともすれば声をあげて泣き叫びたい思いを側で大阪支社に悲報を自ら電話しておられる社長の強い態度に圧せられて、わずかに止めることができた。

告別式の式場で、古野さん(重役)から“君一人になってこれからどうするかね、残念なことをしたなあ”と慰められた時、“惜しくて口惜しくてなりません。これからは二人分やります”とお答えはしたものの、深い悲しみと寂しさは私のすべてを三日以来今もって包み続けている。従って今木原さんの想い出を書くべく、まだ私には何もかもがあまりにも生々しくてとてもそんな気持ちになれそうにもない。

文化放送・中島氏とゴルフ場で

木原さんも私も共に新聞記者出身で、お互いニュースを追い回すことによって人生を貫くつもりであったのが、ニュースではなくスポンサーを追い求め、アイデアを掘り出す仕事に変わって、新しい商業放送、ラジオとテレビの世界に生涯を賭すことになったのであるが、木原さんはよく“幸基さん、商業ラジオとテレビだけは完成しよう”と私に話されたもので、この新しい仕事のために全身全霊を傾けつくすことをお互いよく語り合ったものである。

わが道はこの道より外になし我はこの道を行く

この気で二人は日々語り合い励まし合ってきたのである。もちろん木原さんは図抜けた才幹を持たれ、その特典の才能は高く評価されていたので、私は深く兄事してその指導、意見に頼っていただけに、今木原さんを失ったことは杖を失った盲人のごとく、まったく途方にくれる思いである。しかし二人が固く志した「商業放送完成へのコース」は、たとい私は一人になってもあくまでも進まねばならぬと堅く決意しており、これだけが木原さんの深い友情に対して私として酬い得るただ一つのことと考えている。(二月十二日、十日祭の夜)

――同郷、同年、同学、同職しかも最初は同じ会社で働いた中島幸基は、公私ともに近しい間柄だったのだろう。この相手ならなんでも打ち明けられる気の置けない友だったに違いない。その友に商業ラジオ、テレビへの意欲を語っている。いかに全身で打ち込んでいたかが伝わってくる。

木原通雄は友人、先輩に恵まれていた。そのような親密な人間関係をつくれる溢れるばかりの豊かな人間性を木原はもっていた。

 

(写真上)終戦の詔勅、(下)ゴルフ場の中島氏と木原

(文中敬称略)

プロフィール

  • Okada
    岡田 芳郎

    1934年東京都生まれ。早大政経学部卒。56年電通入社。コーポレート・アイデンティティ室長、電通総研常任監査役などを務め、98年退職。著書に『社会と語る企業』(電通)、『観劇のバイブル』(太陽企画出版)、『日本の企画者たち~広告・メディア・コンテンツビジネスの礎を築いた人々~』(宣伝会議)など。

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