イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ― #25

日本のテレビCM史の流れを変えた異才 ― 今村昭物語(7)

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    小田嶋 伸幸

今村昭は、いかにして「人造人間」CMを世界におくり出したか

 

─ 研修で「イエイエ」CMは見ていたので、目の前にいるひとが、その立役者なのはわかっていた。しかし彼が当時、石上三登志でもあり、盛んに映画評論を映画誌に書いていたことは、なにも知らなかった。だいたい、どんな映画が好きか?なんて聞かれたのは、電通では初めてだった。

「はあ、映画ですか?えー、僕は子供のころから特撮映画とか、SF映画が好きなのですが」。今村さんの眼鏡の奥の目玉が、キラッと光った(ように、見えた)。「特撮? SF? ほう、たとえば、どんな?」

─ わたしは、その時分、自分では最大のSF映画体験であった、あるタイトルを挙げた。
「2001年宇宙の旅、ですね」。

今村さんの目玉は、後の、「スターウォーズ」のC3POみたいに真ん丸に見開かれた。
「2001年…!? きみ、ちょっとさ、お茶にでも行かないか?」

…今村さんは、わたしを銀座電通のすぐ向かいの「ウエスト」に案内した。この喫茶は、現在もそうだが、当時も時間が止まっているかのような雰囲気、レトロな制服のウエートレスたち、アナログレコードのクラシック音楽、豊富かつ手が込んだスイーツ、で独特な店だった(現在ではアナログ機材はなくCDがかけられる。LPは保存されている)。

後年、今村さんと、わたしたちはここで、さまざまなCM企画を生み出すことになる。いわば、今村部の別室であった。

さて、今村さんはおもむろに口を開く。
「2001年宇宙の旅…、実は、僕はもう7回観ている」

こんどは、わたしが目を丸くする番だった。補足すると、この映画の日本初公開は1968年、テアトル東京。今村さんは座席を変えて3回、海外で3回、翌年の凱旋公開で1回だったという。わたしは翌年の方で観た。

この時の会話でわたしは東宝特撮、大映特撮(「大魔神」など)、海外SF(「禁断の惑星」「宇宙戦争」「地底探検」「ミクロの決死圏」など今日では古典SFと呼ばれる映画群、さらに「猿の惑星」シリーズなど60年代後期から70年代初期の映画群)、またSFテレビドラマ、とくに「ミステリーゾーン」「アウター・リミッツ」全49話、「宇宙家族ロビンソン」「サンダーバード」、日本の時代劇映画─ 黒澤映画。などなど100本くらいを挙げ、たくさんの監督名も出てきた。

会話していて気付いたのは、今村さんの連想力の半端なき膨大さだった。ひとつ聞くと、十倍は返ってくる。巨大な記憶力、─ この連載で書いているとおりの人間データベース、歩く百科事典(映画、映像に限るが)─ としか言いようがない。

そして今村さんは、出てきた映画を微に入り細に入り、実によく教えてくれた。当時、彼は30歳代半ば、わたしより一回り以上の大先輩が、実は、なんだ、自分とほとんど同じ趣味、嗜好のひとなのか、と気が付いた。それは、1970年公開の「地球爆破作戦」を挙げた時、端的に表れた。

「え、あれを観ているの! きみ、ほんとうにSFが好きだね、はははっ!」

…また、私は驚愕した。それは「2001年」のスタンリー・キューブリック監督の映画は全て、ある時間論だと言われたことだ。最初の「現金に体を張れ」は、途中画面が分割され、犯罪の経過が示される。「2001年」でも、そういえば、人類の過去、現在、未来で成り立つ。後の「シャイニング」や、ほかで私は、そうか!と思ったものだ。

「地球爆破作戦」は、この呆れる邦題が災いしてか、当時全くヒットしなかった(原題はまるで違う)。が、SF映画史では隠れた傑作のひとつだ。米ソの国家システム・コンピューター同士が出会い、恋愛し、結婚。人類支配に乗り出し、世界平和をもたらすという、今日のディストピアものの先駆けとも言える。ほかに手塚漫画や、ミステリー小説なども話したが、ともあれ銀座電通に戻るころには、もう夕暮れであった。

「地球爆破作戦」のポスター
「地球爆破作戦」のポスター

ところで、わたしは最初から今村部にいたわけではない。最初の配属は、赤井部であった。当時、銀座電通第三クリエーティブ局は、6階、7階にあったと思う。10数人の部長ディレクターがいて、各部を構成、統括。部員は、CMプランナー、アートディレクター、コピーライターなど均等バランスで配置。わたしは新入社員で、赤井恒和CDの部に、コピーライター見習いで配属された。同期生7名も、みな、ばらばらに配属。

当時の広告界には、三大コピーライターと呼ばれる巨匠がいた。赤井さんはその一人で電通を代表するコピーライターである。あとの二人が、土屋耕一、秋山晶である。

さて配属はされ、はじっこのデスクに毎日いるものの、なにをするのか、すべきかわからない。まあ、新人とはそういうものだろう。─ 雑用をしながら、先輩がどんな仕事をしているのか、ほかの部はどうか、同期はなにをしているか、局全体はなにをしているのか、観察、学習、勉強の日々である。『ACC年鑑』『コピー年鑑』を読みまくり、講習会に出たりした。

─ そんな、ある日、今村さんが、ちょっとおもしろい企画で、出演者が来るが同席するか?と誘ってくれた。どんな企画か、尋ねると、ロボットだ、と言う。わたしは飛び上がった。── これがナショナル乾電池「人造人間」CMの制作の始まりだった。出演は、トビー門口。演出監督は今村昭。プロの助監督として関谷宗介。制作・電通映画社。

銀座電通4階の応接室に、ひとりで来たトビー門口の印象は強烈で、わたしはいまもよく覚えているのだが…ここで経緯を説明しなくてはならない。まず企画は、ナショナル乾電池の高寿命性能を説明する男優がいるのだが、実は彼自身が乾電池で動くロボットであり、取り外すと止まってしまう、という二重プロセスの、かなり映像本位のもので、これを高橋俊明が作った。企画だけは通ったが、予算は極めて低く、スケジュール切迫、さらに具体的な制作方法がさっぱりわからない。困り果てたCD平井章雄が、今村昭に相談した。今村さんは演出を任されることになり、出演者を一晩考えた。

で、このまた前の話なのだが、今村さんは加山雄三主演の東宝「薔薇の標的」で、悪役を演じたトビー門口を好評価する評論を書いていた(石上名で)。トビーは、人を介して会いたいむねを伝えてきた。仲介者は、プロダクション21主宰の稲見一良(読みは、いつら。この人は凄くユニークな方で狩猟、小石へ小鳥の絵を描くのが趣味。後に傑作冒険小説作家になった)。トビー門口は、当時の日本映画界では珍しいテクニカル・アームズ・アドバイザー、つまり銃器・火器・血しぶき・ほか効果の専門職人、俳優もする、スタントもする、というひとである。会った今村さんは、映画のアクションのリアルさをいろいろ話し込んだらしい。

今村さんの演出コンテのひとつ
今村さんの演出コンテのひとつ

で、…このCMは、トビー門口しかいないと思いついたわけである。つまり、説明する男優、実は、というのでベストの胸を開くと乾電池で動いている内臓機械の製作、さらに乾電池を外すとバッタリ倒れるスタント演技、のひとり三役をやれるのは彼しかいないのだ(低予算でもあるし)。

そんなこんなで、銀座電通応接室にもどるのだが、トビー門口は、ほんとに三つ揃いのスーツで現れ、(前述の)スタッフに慇懃無礼にあいさつした。なんだか、ほんとに物静かな本職は殺し屋のようにも見え、高校の物理教師のようにも見え、服を変えれば牧師のようにも見え…人間のようで人間離れしていた。打ち合わせは順調に進み、撮影を迎えた。

いちばん問題は、電池を外して、バッタリ後ろに倒れる演技シーンだった。へたすると、脳振とうでも起こしかねない。実は前夜、トビー門口から今村さんに電話があり、床にラバーを敷いて、そこに人型が残る、安全でもあるし、との相談があった。実を言うとわたしはそばで聞いていたのだ。今村さんは、さすがというか、「だめです」と一蹴、「あなたはロボットですから、バタッと倒れるのです。お願いします」。で、電話を切ってしまった。つまり人間ではない、というSF的リアルさがよくわかっていたのだ。またここではサイト・ギャグの演出が重要と今村さんは考えていた(これは次回で説明します)。

プレゼン用のコンテ
プレゼン用のコンテ

─ かくて撮影は終わり、実は2パターンおさえたが、ともかく編集し、オンエアされた。驚くべし、大好評である。とくに広告業界、内輪から好評であった。電池が売れたかはわからないが、トップブランドは維持できた。このCMは、カンヌ、IBA、クリオ、ACC、などアメリカ、ヨーロッパ、日本で、計八大受賞を獲る最多受賞作となり、後年、イエイエに次ぐ、今村昭2度目のACC殿堂入りCMともなった。

ところで、わたしは、なお赤井部に在籍しつつ、1976年に東京コピーライターズクラブ新人賞を受賞した。当時これに入れば、一応コピーライターとして認めるという雰囲気があった(いまも、そうだろうか?)。入社2年で、こうなったので、ほどなく、今村部へ転籍した(と、いっても隣の部で、ほぼ変わらないのだが)。

かくして、今村さんと、松本昭さん、わたしたちのCM制作物語は佳境に入っていく。

(文中敬称略)

ナショナル乾電池「人造人間」
ナショナル乾電池「人造人間」

◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。
◎次回は10月30日に掲載します。

プロフィール

  • Odajima nobuyuki pr
    小田嶋 伸幸

    慶応義塾大学法学部卒。1974年、電通入社。今村昭CD、林靖夫CDなどの薫陶を受け、コピーライター、CMプランナー、CD、を務める。在社中、別名で書評、エッセイ、音楽アーチストのプロモーション、広告小説(商品が登場する小説)なども制作していた。現在の電通ダイレクト系各部門の源流になる部門創設メンバーのひとりで、インターネットをふくむダイレクトクリエーティブも手掛け、2010年ダイレクトビジネス局次長相当を最終として退社。いまは個人事務所を主宰。

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