電通を創った男たち #18

電通電波ビジネス黎明期の牽引者

木原通雄(17)

  • Okada
    岡田 芳郎

“貧しても鈍するな” “社屋もメディアだ”死しても残す直言

 

わが提言

木原通雄の「わが提言(8)」が電通社報に掲載されたのは、木原の死の7日後、昭和30(1955)年2月10日号である。「逝去の前日執筆したもので絶筆となる」とコメントが入る。

「貧しても鈍するな 広告電通賞にからんで」と題して、提言している。「二月二日事業予算会議の席上、日比野常務から聞けば、社内にこの際広告電通賞を中止してはという意見が出た由。これ実に驚くべき敗北主義であり、昔から貧すれば鈍するというのはこの心理を云う。即ち形勢非なりと見れば、その挽回策よりも、各人の分捕りと分け前を急ぐことを意味する。もし、この種の心理や主張を容認する場合は,猿がラッキョウの皮をむくごとく、やがて電通は一個の鞄外交に転落すべし。即ち、ビルもいらぬ、車もいらぬ、調査もいらぬ。さすれば、やがて幹部もいらぬとあって、分け前はおろか、己の首もなくなるであろう。[週間意見書から]」

率直で鋭い直言だ。事業予算会議の発言であるから、幹部からこのような意見がでたのだろう。木原は、目先の業績の良し悪しによって社の社会的責任と存在意義に関わる重要事業を中止しようとする愚見に激しく警鐘を鳴らす。木原の見識は電通のような現場主義の会社に貴重だ。大所高所からものを見る長期戦略的視座を木原は持っており、周囲の微温的空気にとらわれず信念をもって発言する勇気を持っていた。

 

銀座電通ビル

「本館の正面ウインドウは、銀座の現況並びに将来よりして、今後非常なる広告価値を加えると思う。従前、この区画は電通の事業(場合によっては全く抽象的な展示)の紹介に用いられて来たが、これはもっと積極的な利用策があるのではないか。例えば、商品の直接宣伝でなくとも、媒体側の例えば、ラジオ東京のテレビ発足とか、国際見本市とか、新聞社の大きな催しものとか、本社の収入となり、しかも広告効果の多い企画が至急講究さるべきではないか。むろん、電通そのものの主体性はいつでも、その一角にリザーブさるべきこと。」

本館ビルのウインドウをもっと広告媒体として活用すべきだという着眼は、木原の抜け目のなさ、目の配り方の周到さを感じさせる。人通りの多い銀座外堀通りのウインドウは、いいメディアになりうる。現に、その後昭和45年になってからのことだがこの通りのソニービル角は極めてパブリシティ効果の高い広告スペースとして高額の料金で引っ張りだこになっている。社屋もメディアだという認識は鋭い。

そして2月28日号には、「わが提言(10)」として最後の遺稿が掲載された。

「サービスと商品の一体化=去年、宝の大宮会長が帰朝せる際、必ず旅行記の作成を希望するにつき、これを電通にて勧説引き受けては如何と森崎出版部長に諮り、京都電通に連絡したが、最近贈られたる豪華本は電通の手ではないらしい。電通は出版業を営まないから、別に出版に血眼をあげる要はなしとするも、平素喧伝さるるが如く、宝が大切なスポンサーであり、大宮氏が特別な位置にある人なら、この種のサービスが、叩頭百遍、菓物の千荷よりも有効なのではあるまいか。況や、あの本の作り様から見ると扱い方ひとつで立派な商品になると考えられる。もっとも京都電通にて斡旋せるものならば、それでも充分の効果はあげていよう。[週間意見書から]」

木原の提言は、得意先との付き合い方の要諦を示す。本当に相手が喜ぶことは何か、それを考え先方の期待を超えた形で実現化するのが電通の存在価値だ。得意先のトップの特別の時に印象的なサービスをする大事さを木原は説いている。「叩頭百遍、菓物千荷」より、ここ一番での力の発揮こそ勝負なのだ。

木原は死んでもいくつものメッセージを残した。

 

(写真上)亡くなる前日に執筆した「わが提言」、(下)昭和8年、竣工時の電通銀座ビル

(文中敬称略)

プロフィール

  • Okada
    岡田 芳郎

    1934年東京都生まれ。早大政経学部卒。56年電通入社。コーポレート・アイデンティティ室長、電通総研常任監査役などを務め、98年退職。著書に『社会と語る企業』(電通)、『観劇のバイブル』(太陽企画出版)、『日本の企画者たち~広告・メディア・コンテンツビジネスの礎を築いた人々~』(宣伝会議)など。

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