イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ― #35

加藤菊造と「営企」の青春譜(1)

  • Hamada itsuro pr
    濱田 逸郎

ジャンプに明け暮れた学生時代

 

1980年代、電通に「営企」と呼ばれた組織があった。営業企画室として発足し、やがて営業企画局となった組織だが、女子マラソンを生み出し、熟年ブームを仕掛け、当時はCIと呼ばれたブランドコンサルティングへ参入するなど、電通のビジネスにさまざまなオリジナルの企画を通じ新しい息吹をもたらした存在だった。
広告代理店から総合コミュニケーション産業へ脱皮する過程で重要な役割を果たした組織といえるだろう。
室長・局長としてその「営企」を育て上げ、周囲から兄貴分と慕われた加藤菊造の生涯を紹介するとともに、活力と情熱にあふれて自由闊達な「営企」と呼ばれた組織の青春譜も語ってみたい。

加藤菊造といえば、紺のスーツに紺のコート。いつもダンディなたたずまいだった
加藤菊造といえば、紺のスーツに紺のコート。いつもダンディなたたずまいだった

加藤菊造が旭川に生まれたのは1930(昭和5)年。男3人女2人の5人兄弟の真ん中だった。ほどなく小樽に引っ越し、本人は小樽を故郷ととらえていた。
家業は菓子店。当時ビスケットなどで北海道を代表するメーカーだった帝国製菓の商品などを扱っていた。

少年時代の菊造の心をとらえたのがスキージャンプだった。小樽は日本のスキージャンプ発祥の地。その歴史は日本にスキーを伝えたオーストリアのレルヒ中佐から直接の指導を受けた明治にさかのぼる。
当時の小樽にはいくつもジャンプ台があり、ジャンプは子どもたちの代表的な冬の遊びだった。菊造少年が兄の後についてジャンプを始めたのは小学校3年生の頃だろうか。
とはいえ、小学生にとりジャンプはなまやさしいものではない。ジャンプ台の上に立つと着地するバーンははるか遠くに見え、足もとから寒さとともに恐怖心が湧き上がってくる。
「初めてジャンプを跳ぶとき、おれ、こわくて小便ちびっちゃったよ」というのは、菊造が後年ジャンプの話をするときの話題のひとつだ。

やがて小樽の同世代のジャンプ仲間の中で頭角を現す。高校を出ると進学組は小樽か札幌の大学に進むか東京に出てゆく。当時の小樽のジャンプ仲間の多くは早稲田か明治に進んだが、菊造が選んだのが早稲田大学の法学部。明治に進んだ親しい友人のひとりに八木博がいる。彼は後年息子の八木弘和のコーチとしてレークプラシッドオリンピックのジャンプで日本に銀メダルをもたらした。
当時の早稲田のスキー部は黄金時代を迎えていた。菊造はスキー部で主将を務めることとなる。

早稲田大学スキー部時代。中央が加藤菊造
早稲田大学スキー部時代。中央が加藤菊造
 

西早稲田に今も残る居酒屋「源兵衛」の裏手にあった下宿は小樽の先輩佐藤正明と一緒だった。菊造には周りの人を引き付ける人徳とリーダーシップが備わっていたのだろうか、いつも仲間のたまり場であったようだ。

スキー仲間だけでなく、女性にもずいぶんモテたようだ。足が長い長身のスポーツマンで、話が面白い、しかも女性にがつがつしたそぶりを見せない。早稲田の女子学生たちが帰省に合わせて小樽についてきたとの話も残されている。シャイな菊造のこと。照れてその接待を妹に任せきっていたらしい。若い女性だけでなく、近くの定食屋のおばちゃんにも菊造ファンが多く、いつもお菓子を差し入れてもらい、買わずにすませたとの話もある。

大学2年の冬にオスロで冬季オリンピックが開かれる。日本が戦後初めて参加した冬季大会だ。
日本のジャンプ陣はこの大会でカルチャーショックを受ける。両手を体側にぴったりとつける現在のフォームを初めて知ったのだ。それまでの日本のジャンプは空中で平泳ぎやクロールのように懸命に両手を動かしていた。後年、営業部で菊造の部下となる小林衛は、「加藤さんはバタバタするフォームだったんでしょ。とよくからかったものです」と述懐する。
それでも菊造は全日本学生で6位の成績を残し、スキー部主将としての面目を保っている。

しかし、失敗ジャンプもあった。今に続くスキー大会に宮様スキー大会がある。ジャンプの優勝者には秩父宮杯が授与される大会だが、これに参加した菊造は空中でバランスを大きく崩し、ランディングバーンに叩きつけられた。「秩父宮妃がおられたので、力入っちゃったんだよな、おれ」と菊造は言うが、骨折こそしなかったものの全身打撲のダメージは大きく、数カ月の療養を要し、当初は風呂に入るにも仲間にかついで入れてもらったという。この時の古傷はその後も菊造を悩ませることになった。

ジャンプの雄姿
ジャンプの雄姿
 

菊造の大学卒業は1953(昭和28)年の10月。友人に学費を融通した菊造はその返済が滞ったために自分の学費が払えず、卒業が半年遅れてしまった。日本でテレビの放送が始まり、街頭テレビに黒山の人だかりのできた年だ。朝鮮戦争の特需により戦後復興の道筋はついたものの、神武景気に先立ち、いまだ不況にあえいでいた時代である。当然学生の就職状況も厳しい。新聞記者を目指していた菊造は就職活動に失敗し、建設会社のサラリーマンとして社会に出る。

(文中敬称略)


◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。

プロフィール

  • Hamada itsuro pr
    濱田 逸郎

    1949年生れ。慶應義塾大学経済学部卒。71年電通入社。営業企画局、CI室、CC局、ブランドクリエーションセンター等を経て、05年退社。江戸川大学メディアコミュニケーション学部教授、日本広報学会理事長等を務める。著書に『日本の広報・PR100年』(共著/同文館)、『宣伝費をネット広報にまわせ―戦略的マーケティングのすすめ』(共著/ 時事通信出版局)など。

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