イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ― #37

加藤菊造と「営企」の青春譜(3)

  • Hamada itsuro pr
    濱田 逸郎

アニメブームを作った営業時代

 

加藤菊造は昭和38年1月小樽支局から本社第七連絡局に異動する。ビートルズの曲が流れ、映画では植木等の無責任ものがヒットし、東京の街はオリンピックに向けての突貫工事が進められていた。

転勤してまず取り組んだのは、新規広告主の開拓である。狙い定めた企業に足しげく通い、取引につなげる。当時の広告会社の営業の主流は新聞、テレビなどの扱いの獲得である。そのために、休日のゴルフなどで広告主のキーマンとの人間関係を作ることが重視されていた。そんな中で菊造のアプローチは一味違っていた。今から考えれば当たり前のことだが、広告主との対話の中から広告主の課題を見つけ、それを一緒に解決する方向で提案をぶつけるのだ。

小樽から本社に来たばかりで周囲に仲間を持たない菊造にとってこれはたやすくはない。取引のない広告主だけに企画書を作成する費用も捻出できない。わずかなつてを頼りに社内でボランティア的に手伝ってくれるスタッフを探すことになる。このころ情にほだされて協力したコピーライターに脇田直枝がいる。脇田は本社の近くの道を左右に首を振り、考え込みながら歩いていた菊造の姿を鮮明に覚えているという。突破口となる企画を考えると同時に、社内の協力体制づくりにも頭を悩ませていたのだろう。

そんな努力が実り、ある飲料会社で広告部長を口説き落とし、一晩で他社の扱いを電通扱いに変えたことは伝説として語り継がれている。電通が不慣れだった不動産広告に新機軸をひらいたのも当時の菊造の仕事だ。

決して能弁ではない、軽い北海道なまりで訥々と語り掛け、相手の話にじっくりと耳を傾ける姿勢が、社内でも社外でも相手の信頼を呼ぶのだった。

しかしなんといっても営業時代の菊造の最大の広告主はカルピスである。

「初恋の味」として子どもを中心にファミリーに喜ばれる飲料として定評のあるカルピスに対し、菊造はテレビアニメの番組提供を提案した。小樽時代、池田のバンビキャラメルで知ったキャラクターの威力をカルピスにもたらそうとしたのだろうか。

こうして昭和44年、「カルピスまんが劇場」がスタートする。

このシリーズ2作目のムーミンが大ヒットする。以降、アニメはカルピスにとってのキラーコンテンツとなるのだ。「カルピスこども劇場」「世界名作劇場」、番組タイトルは変わっても、カルピス一社提供のこの番組は、アルプスの少女ハイジ、フランダースの犬、母をたずねて三千里、あらいぐまラスカル、赤毛のアン等、こどもたちの情操をはぐくみ、今でも鮮烈な思い出として残る名作の数々を生み出した。

原作の選定から番組の制作、キャンペーンの展開に至るまで菊造はこの企画の中心にいた。制作プロダクションである日本アニメーションの社長は同じ小樽出身で年齢もほぼ同じ本橋浩一である。菊造と本橋のコンビは日本のテレビにアニメブームを起こした。

「フランダースの犬」の最終回。アントワープ大聖堂のルーベンスの絵の前で、ネロ少年とパトラッシュは、天使に抱かれて天に召されてゆく。今でもテレビで紹介されることの多い記憶に残る場面だ。

フランダースの犬 最終回の場面 ©NIPPON ANIMATION CO., LTD.
「フランダースの犬」最終回の場面
 

原作は、餓死したネロを囲んで悲嘆にくれる暗い結末だが、それを敬虔な思いに満たされるエンディングに変えたのは、クリスチャンであったカルピスの土倉冨士雄社長の強い意向であった。

菊造は毎回の内容について、土倉社長とひざを突き合わせて打ち合わせ、本橋の主導する制作面に反映させた。

「母をたずねて三千里」の原作は、「クオレ」というイタリアの短編集に含まれる非常に短いストーリーである。これを1年間の連続ものにするためには、さまざまなエピソードを盛り込んでいかなければならない。ここで菊造がこだわったのが、動物の登場である。番組にはマルコ少年の旅の相棒として「アメディオ」というサルが登場するが、これはカルピスの販売促進のための夏のぬいぐるみプレゼントキャンペーンを意識したものだった。事実このキャンペーンは応募総数300万通を超える大成功を収めた。菊造は番組内容からキャンペーンの展開、社会的影響まで幅広く目配りしていたと当時の部下の森公佑は述懐する。

「母をたずねて三千里」マルコの肩の上にアメディオがのっている ©NIPPON ANIMATION CO., LTD.
「母をたずねて三千里」マルコの肩の上にアメディオがのっている
 

入社してまだ間もないころ、森は菊造に命じられてクライアントへの自主提案の企画書を書かされている。通常は広告主向けの企画書はマーケティング局や媒体局のスタッフが筆を執る。森に執筆を命じたのは、営業こそ企画力を高めなければならないと考え、若手の営業を育てようとする営業部長としての姿勢によるものである。

電通では、営業部の名称は部長の名前で呼ばれる。当時、新人が第七営業局に割り当てられると、加藤部に配属された。「即戦力が欲しいのに」と菊造はぼやくが、加藤部は新人教育に最適の場だったのである。「油さし営業になるな」と森はよく菊造に言われたという。広告主と媒体の潤滑油になることに汲々とするのではなく、広告主の課題解決になるような斬新な企画を提案しろとの意味であった。

同じく、営業で加藤部の部員であった小林衛は「営業部長の動き方のイロハはすべて加藤部長に学んだ」と語る。何よりも広告主の将来を見据えた長期的な構想力、直接トップにプレゼンする攻めの営業姿勢、交渉がうまく進まなくとも、あきらめず粘り腰で納得いくまで追求するスタイル。こうして加藤部は常に第七営業局のトップの業績を守っていた。

(文中敬称略)


◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。

プロフィール

  • Hamada itsuro pr
    濱田 逸郎

    1949年生れ。慶應義塾大学経済学部卒。71年電通入社。営業企画局、CI室、CC局、ブランドクリエーションセンター等を経て、05年退社。江戸川大学メディアコミュニケーション学部教授、日本広報学会理事長等を務める。著書に『日本の広報・PR100年』(共著/同文館)、『宣伝費をネット広報にまわせ―戦略的マーケティングのすすめ』(共著/ 時事通信出版局)など。

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