イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ― #39

加藤菊造と「営企」の青春譜(5)

  • Hamada itsuro pr
    濱田 逸郎

失敗の許容が時代を作った

 

1980年12月、営業企画室が発足する。営業開発委員会事務局と連絡総務にあったプランニング室を統合した組織である。

プランニング室は、吉田秀雄が小谷正一に命じて創設したプランニングセンターの伝統を受け継ぐ組織である。プランニングセンターについては、このシリーズのうち「戦後日本を代表するプロデューサー 小谷 正一(3)」に詳しい。

企画力を高めることで営業力を高めようというのが営業企画室創設の意図で、加藤菊造は室長に就任し、プランニング室長だった服部庸一が次長となる。当時服部はこのシリーズの「オリンピックビジネスをつかんだ男 服部庸一」にあるように、ロス五輪のビジネス化に走り回っており、新組織の運営は菊造を二人の部長が補佐するトロイカ体制でスタートした。ひとりは営業開発委員会事務局を一緒に作り上げた企画一部長の長谷昭、そして小谷正一の直接の薫陶を受け、プランニング室の中心にいた企画二部長の岡田芳郎である。

営業企画室は1984年に営業企画局に改編される。局長は加藤菊造で変わらない。社内では営企の呼称で呼ばれていた。本稿では煩わしさを避けるため、「営企」に統一している。

営企は売上や収益に対する責任は与えられていなかった。営業部門や媒体部門など社内の他のセクションのサポートをすることで、他のセクションの収益に貢献することが求められていた。

そのミッションは新しい企画や売り物になる商品、さらにはこれまでの広告会社になかった新しいビジネスモデルの導入を図ることである。

加藤菊造局長のもと、営企にはほかの部署に例を見ない自由闊達な風土があった。後年、新聞雑誌局、人事局から異動してきた日根野眞弓は、初めて出席した局会の司会が若手の女性社員であることに驚愕したと思い出を語る。男社会のしっぽを引きずる当時の電通にとってはありえない光景だったのだ。

社命による国内留学から戻り、営企に配属された筆者は、それまで所属した媒体部門や営業部門と異なり、年齢や職階の上下を超えて、何でも自由にモノが言える風土が信じられぬ思いだった。

「百回失敗しても一回成功すればいいんだ。失敗を恐れて手を出さないのが一番悪い。たとえ失敗してもやることに価値がある」。菊造は常々こんなことを言っていた。営企には失敗を許容する文化があったのである。

今にして思うと当時のメンバーは多種多様である。周囲の輿望を担ったエース級のスタッフもいたが他の部門から放出され、引き受け手のなかった社員もいた。他部門で失敗を重ねていた筆者は、玉石混交の「石ころ」として営企に流れ着いた。ダメ社員だった筆者は、営企ではじめて仕事が面白いと感じたものだった。記念切手のデザインを初めて公募した仕事、サントリーホールの基本設計、つくば科学万博のパビリオン企画提案、NTTの民営化CI・・・。どれもエキサイティングだった。

いままでなかった新しいビジネスモデルを作り出そうとするとき、作業の過程ではさまざまなコンフリクトも発生するし、失敗も稀ではない、社内外の関係者に迷惑をかけることもある。

菊造は時間があると職場をぶらぶらと動き回り、空いている席に座り、周囲の社員の仕事ぶりを見つつ、作業の進行状況に気を配っていた。問題があると相談に乗り、トラブルが起きるときめ細かくその処理に走り回っていた。関係諸方面への仁義を欠かさないのが菊造のスタイルである。

営企では毎週月曜の朝に企画情報会議が開かれる。営企は国内や海外の支社支局と連携し企画情報の収集を行うとともに、本社内の各局に兼務者を置き、情報の加工や企画化を行っていた。それらの情報は青紙と呼ばれる情報シートに一件一葉でまとめていた。

前の週に集まった情報シートをひとつずつ検討し、扱い方を決めるのがこの会議である。

情報を深掘りするか、営企内部で企画化を進めるか、他局に情報を流して扱いを任せるか、あるいは当面ペンディングとし今後の進展を待つか。

スポーツマンの加藤菊造は体を動かすことが好きで、スポーツクラブにもよく通っていた。
スポーツマンの加藤菊造は体を動かすことが好きで、スポーツクラブにもよく通っていた。

インターネットやデータベースの発達により、いまでこそ数字やテキストや位置情報から画像データ、人間関係、社会的トレンド、関係者の心理状況など形態の異なる大量のデータを統合的に分析することは珍しくない。しかし、当時のパソコンの能力は低く、非定型の情報は検索にはなじまなかった。そうしたデジタル処理の未発達の時代に、虚実定かならぬビッグデータを集め、極めてアナログ的にこれを処理していたことに注目してほしいと思う。人と人とのつながりの中から、瓢箪から駒のように面白いユニークな企画が生まれてくるのだ。

夕方になると社内各局の企画担当や、新しい情報に敏感な社員、時には国内外の支社からの出張者が営企に集まってきた。いつしか酒盛りが始まり、さまざまな情報が飛び交い、シェアされ、企画のヒントが生まれていった。館内の冷房が止まった蒸し暑い夏の夜は、足元の空気取り窓を開けて飲み続け、やがて本社ビル前のコンワビル地下にあったヘンリーセブンというスナックに流れていった。

企画情報会議がフォーマルな会議とすれば、ヘンリーセブンはインフォーマルな会議。この両輪で営企はまわっていた。

ヘンリーセブンにて 奥に立っているのが加藤菊造
ヘンリーセブンにて。奥に立っているのが加藤菊造
 

菊造はヘンリーセブンでは終わらない。「なかむら」、「伽羅」…。いくつかのバーをはしごすることも稀ではない。酒の場でも菊造の話は例外なく仕事の話題だ。気が向くとカラオケのマイクを握った。十八番は「小樽の人よ」「北へ帰ろう」。

心なしか左肩を落とし、低音でしみじみとした歌声が流れた。酒が回るにつれ思いは懐かしい小樽に帰ってゆくのだろう。「定年になったら小樽に帰って少年ジャンパーのコーチがしたい」。菊造はそんな夢を語っていた。

時には六本木にも足を伸ばし、さらに部下を自宅に伴うと、節子夫人は手早く酒肴を用意しもてなした。その手料理は評判がいい。あまりに居心地がよかったのだろう。特に営業時代の部下は何回も加藤家に泊まっていたようだ。菊造が早朝会議に出勤した後、朝風呂に入ってゆっくり会社に出たものだと小林衛や森公佑は遠くを見るような視線で思い出を語る。

節子夫人の内助の功あってこその加藤家だった。そもそも菊造は典型的な昭和の電通マン。あまり家にいないので、こどもの教育とか家庭のことは全部節子夫人に任せていたのだ。 うっかりすると車の送り迎えまで。

(文中敬称略)


◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。

プロフィール

  • Hamada itsuro pr
    濱田 逸郎

    1949年生れ。慶應義塾大学経済学部卒。71年電通入社。営業企画局、CI室、CC局、ブランドクリエーションセンター等を経て、05年退社。江戸川大学メディアコミュニケーション学部教授、日本広報学会理事長等を務める。著書に『日本の広報・PR100年』(共著/同文館)、『宣伝費をネット広報にまわせ―戦略的マーケティングのすすめ』(共著/ 時事通信出版局)など。

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