電通を創った男たち #20

電通電波ビジネス黎明期の牽引者

木原通雄(19)

  • Okada
    岡田 芳郎

木原と吉田の絆―電通「鬼十則」を創った男たち

 

一周忌追悼会

昭和31(1956)年2月10日の「電通社報」は、木原の一周忌の写真入り記事を載せている。

「盡きぬ想い出 故木原氏一周忌追悼会

*多くの人達に、その才を心から惜しまれて逝った故木原通雄氏の一周忌にあたる二月三日夕五時半より西別館二階応接室で追悼会が開かれた。*故人の先輩や同僚であった社内幹部をはじめ,薫陶を受けた後進の社員たち、およそ五十余人。とくに社外からただ一人の出席者である信越放送の野沢社長から、“私は前夜九時ごろまで木原さんと築地の蘭亭で語り合い、帰り道、『どうです…もう一軒』と誘われたが、とうとうそのままお別れしてしまった。…おそらく仕事の上では私が最後にお目にかかったわけだから感慨もひとしおです…”との挨拶があったが、それぞれつきぬ思い出に語り合った夜だった。」

写真は、木原氏の写真が飾られ花が供えられた壇を沈痛な表情の社員たちが囲んでいる。寂しい中にも親密な感情が流れている。

その1年後、昭和32年2月20日の「電通社報」に、「故木原氏の石田三成研究 死んだ日に受け取った書簡」という見出しで、次の記事が掲載された。

「故木原通雄氏の三回忌に当たり、このほど大阪支社ラジオ・テレビ局の磯部制作部長から、木原氏死亡の当日(昭和三十年二月二日)に落手したという同氏の手紙が送られてきた。」という前文があり、磯部と木原の手紙が紹介されている。

「仏教では死んで満二年に三回忌を営むので俗名木原通雄の三年は今年の二月二日になる勘定です。同封の手紙は木原死亡の当日、三十年二月二日に平松氏が落手されたもの、平松氏は二月七日付の新聞協会報でこれを知り、驚いて私のところへこの手紙を持参されました。木原氏が石田三成のことを読売かなんかに書いた、平松氏は三成の研究をやっているので、木原氏と見解を異にし、反駁の手紙を木原氏に出した。その返事がこれです。平松氏は、木原氏が筆マメにすぐ返事をくれたことを大へん喜んでいました。木原氏手紙の最後に“一度お伴をして拝見したい”とあるのは、三成が天寿を全うした岸和田の榊原家に、今も三成の短刀が伝わっている、それを見たいもんだと、いうことです。帝国産業というのは支社のすぐ東隣りにあり、昨年は電通の世話で菊地一雄氏を煩わし,先代寺田社長の胸像を建立しました。平松氏は庶務課長で岸和田に住し、郷土史研究家です。 磯部秀見」

「平松道夫様

拝復 拙文お目にとまりご親切なお手紙大変ありがたく拝見いたしました。お示しの事実は小生不聞ですが、三成は秀吉死後、福島などの武将に襲撃されるところを家康のためにかくまわれて助かった事実があります。あれほどの才幹の人物ですし、家康はもっとも精密な戦略と攻略に長じた第一人者ですから、三成を助けて、その思慮を利用したとすれば面白い話です。あずけ先が、家康腹心の榊原家というのは、その推理を有力にするものでしょう。独裁国のソ連では、例えばカール・ラデックのように一度は死刑になったと報ぜられながら、また復活したような事柄もあり、まことに戦国時代には多かったはずです。いずれにしても興味のある話です。お礼を申し上げると共に、一度お伴をして拝見する機会があれば幸甚この上はありません。

敬具

                                 木原通雄」

木原通雄について牛場友彦氏は、「洋の東西、古今の歴史を実によく知っていた。その点、駆け出しの評論家の真似できない内容を持っていた」と評したが、この平松氏との手紙のやりとりからもその一端がうかがえる。

死後2年を経て社報の記事になる社員は木原をおいていない。死してなお木原は電通社員の中で生き続けていた。

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鬼十則

吉田秀雄社長が社員のために書き記した電通「鬼十則」は、木原道雄が吉田のメモの文章を添削、加筆して10項目にまとめ完成させたものだという記述が、2004年に刊行された舟越健之輔著「われ広告の鬼とならん」の中にある。

「鬼十則」が文書として全社員に配布されたのは昭和26年夏。木原が電通に入社したのはその翌年の昭和27年1月だ。

終戦後、迫水久常事務所が電通ビルにあった。太平洋戦争終結の詔書は内閣書記官長だった迫水によって起草されたがその作業に関わった4人の1人が当時内閣嘱託の木原だった。迫水事務所によく出入りしていた木原を吉田秀雄に「優秀な奴がいる」といって紹介したのは、政界の大物・石井光次郎衆議院議員だ。

木原は吉田とウマが合い、たちまち弟分として扱われた。吉田は木原のきらめくような才能に魅せられた。物おじしない木原は4階の社長室を気軽に訪ねるようになった。吉田は社員へのメッセージを思いついた時、手元のメモに書きなぐる癖があり、それが数多くたまっていた。昭和26年7月ごろ、木原が重要なメッセージを整理し、吉田の傍らで簡潔な10項目の言葉にまとめた。それが「鬼十則」となった。二人のやりとりを後に副社長になった高橋渡が目撃している。

木原道雄が電通に入社したのはその半年後である。木原が電通社員として過ごしたのはわずか3年だったが、その一瞬の光芒はいつまでもわれわれの心に鮮やかな映像を焼き付けている。

(完)

(写真上)一周忌に営まれた追悼会、(下)吉田秀雄の遺訓「鬼十則」は木原がまとめたののだという

(文中敬称略)

プロフィール

  • Okada
    岡田 芳郎

    1934年東京都生まれ。早大政経学部卒。56年電通入社。コーポレート・アイデンティティ室長、電通総研常任監査役などを務め、98年退職。著書に『社会と語る企業』(電通)、『観劇のバイブル』(太陽企画出版)、『日本の企画者たち~広告・メディア・コンテンツビジネスの礎を築いた人々~』(宣伝会議)など。

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