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Dentsu Design TalkNo.83

「オヤジフェス2016!」旧は新を兼ねる。オヤジは若さの進化形。(前編)

2017/01/06

今回の電通デザイントークは、コトバの山本高史さんの最新刊『広告をナメたらアカンよ。』を読んだ有志の熱き思いから企画しました。広告界では常に「新しく、若い才能」が求められている一方で、広告ビジネスが複雑化し、コンサルタントやパートナーとしての成熟した視点も求められています。そんな状況の中、自分なりの仕事の見つけ方、戦い方をどう形づくっていけばいいのか?「オヤジ世代の“側に合わせる”のはナンセンスだけどさ…」とつぶやく山本さんと、オヤジ仲間で、のみ仲間でもあるグリッツデザインの日高英輝さん、山本さんが指名したワカモノ代表の電通の三島邦彦さんが語り合う座談会の前編です。

(左より)山本氏、日高氏、三島氏
 

オヤジになって「良かったこと」は?

山本:今日の座談会のタイトルは「オヤジフェス」です。オヤジという存在には“ダメなところ”と“ダメじゃないところ”があると思っています。「昔は良かった」「近頃の若者は…」と言いながら、自分のことを語る姿はあまりカッコいいものではない。

一方で僕は、年を取れば取るほど自分の仕事が良くなっている、という確信も持っています。今日はそういうポジティブな「オヤジ論」を展開していきたいと思います。
日高くんもオヤジですが、年を取って良かったことはありますか?

日高:自分のことをオヤジと言うのはすごく嫌なのですが、実際にはオヤジと呼ばれる年齢になりました。

僕は会社を経営しているので、目の前に立ちふさがる現実や、業界におけるさまざまな事情と対峙せざるを得ない。そんな時に今まで手掛けてきた仕事や立ち位置を冷静に見極めて、自分と対話できるようになったことは年を取ってきた良さかなと思います。

山本:逆にオヤジになって悪かったことは?

日高:階段を上るときに息が上がるとか(笑)。
仕事の面でいうと、クライアントの部長や課長よりも上の年齢になってしまったことですね。やはり年上に仕事はお願いしづらいわけで、今後は依頼されづらくなっていくのかもしれないとリアルに感じています。

山本:僕も日高くんと同じことを思ったことがあります。ちょうど10年前の2006年に電通から独立したのですが、会社に在籍しているときは上司と部下に心地よく挟まれて、自分のポジションを意識することは少なかった。

ただ独立して一人になってみると上下から挟んでくれる環境がなく、自分のポジションに迷いが生じてくる。そんな時にクライアントの宣伝部長が僕よりも年下だと仕事のしづらさを感じて、「あぁ、俺もオヤジになったのだなあ」と思ったことがありました。

ただ最近は、関西大学で教壇に立つようになって「教授」という肩書をもらいました。教授の便利なところは年齢があまり関係ないという点です。

日高:山本さんは教授という別の肩書もあるのですね。

山本:大学で教えることで「経験値」についても考えるようになりました。経験値とは自分の脳が記憶している“考えた経験”です。その経験値をはっきり自覚しながら使うことができるかが“いいオヤジ”になるための分かれ道だと思うのです。
三島くんは年を重ねることについて、どう思いますか?

三島:ちょうどつい先ほど聞いた話ですが、人工知能はシミュレーションを重ねれば重ねるほど精度が上がっていくそうです。それはきっと人間も同じで、いかに思考を重ねていくかが仕事の精度にも関わってくると思います。

自分が悩んでいる時に、年上の先輩が「それはこうだよ」と一瞬で正解への道筋を示してくれることがあります。そのスピードは経験からくるものに他ならないと思います。

山本:電通にはオヤジがたくさんいるけど、どう思う?

三島:言葉の選び方が難しいですが、“尊敬できるオヤジ”と“尊敬できないオヤジ”がいます(笑)。

尊敬できるオヤジは“会社の宝”です。ただし僕は、尊敬できないオヤジの話を聞くこともけっこう好きです。尊敬できないオヤジはかつて、ものすごく頑張った人が多くて、常軌を逸した話をたくさん持っています。そうした経験を聞いてワクワクするのも、年上の人が会社にいる楽しみですね。

 

みんな失敗を経て成長した

山本:日高くんは若い頃、どんなことを考えていた?

日高:僕が上京した1985年の広告界は、アート派と言われるサイトウマコトさんや井上嗣也さん、戸田正寿さんが活躍している時代でした。初めて働いた会社は雑誌専門のデザイン会社で、ずっと広告デザインの世界に行きたいと思っていた。当時、一番すごい会社はどこだろうと探す中で仲畑広告制作所を見つけ、仲畑貴志さんに手紙を書きました。

絶対に読んでもらえるように工夫して、模造紙に手書きで文字を書いて、A4サイズに折り畳んで送りました。そしたら仲畑さんが会ってくれることになって、僕はすっかり仲畑広告制作所に入れるものだと思い込んで、働いていた会社に辞表を出しました。若造のくせに根拠のない自信だけはあったのです(笑)。面接で一所懸命にプレゼンしたものの、けんもほろろで入社できませんでした。ちょうど25年前のクリスマスでしたね。

それから年末に郷里の宮崎に帰って1カ月ほどいたのですが、一念発起して『コマーシャル・フォト』の求人欄を探し、宮田識デザイン事務所(現在のドラフト)を見つけました。「広告をテーマに原稿用紙5枚書く」という課題の締め切りは翌日。そこで新幹線の中で課題を書いて、そのまま東京にある事務所まで持っていきました。

たまたまエレベーターの中で宮田さんと乗り合わせて履歴書と課題を渡し、4回ほど面接を受けて入社できました。運もあったのですが、「次のステップに行きたい」という若さゆえの無鉄砲さや熱意、野望がありましたね。

山本:ドラフトに入った当初はつらかった?

日高:そうですね、ドラフトに入ればすぐに宮田さんと一緒に仕事ができると思っていたのですが、なかなかできなくて悔しい思いをしました。まだ27歳の若造でしたから、今から思えば、必要な下積みでした。

ようやく念願がかなって宮田さんと仕事をするチャンスが回ってきたら、提案したデザインを全部破られてしまうほど厳しくて、それはとても大変でした(笑)。

山本:僕が電通に入ったのも1985年でしたね。第2クリエーティブ局に配属になり、当時30代後半だった大島征夫さんの下に付きました。

ある時、そろそろ独り立ちするように言われて、お肉用ソースのコピーを担当しました。ターゲットの専業主婦にソースを売るという比較的シンプルな仕事でしたが、いくら考えても何のアイデアも出てこない。結局、当時の僕は主婦が何を幸せに思うのか、家族に対してどう思っているか、ご飯をつくることをどう考えているのか、何も分かっていなかった。

知らないことは考えることもできないのだと気付き、それ以来、できるだけいろいろな経験を積むように心に決めました。
三島くんは入社した頃の自分をどう思う?

三島:僕は入社して9年目です。1年目は営業で、2年目からクリエーティブに配属されました。転局して数カ月たった時に高史さんに飲みに誘われ、「どうやったらコピーがうまくなりますか」と聞いたことがあります。

すると、「そんな質問はするな。おまえは最短距離を行こうとし過ぎるから、できるだけ遠回りをしろ」と言われて、ハッとしました。何も分かっていない自分が悩むのは当然のことで、悩むこと自体が良いことなのだと気付きました。

山本:そんなこと言ったっけ? お酒を飲むと説教じみたことを言いたくなるんだよね(笑)。

 
※後編につづく
こちらアドタイでも対談を読めます!
企画プロデュース:電通ライブ クリエーティブユニット第2クリエーティブルーム 金原亜紀