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Dentsu Design TalkNo.7

斎藤和弘×江成修
「セレンディピティ編集術」(前編)

2013/12/06

Design Talk Session第89回(2012年10月12日実施)は、長年編集者として活躍され、現在はフリーランスで活動する斎藤和弘氏を迎え、株式会社ドリルの江成修氏が聞き手となって、「セレンディピティ編集術」と題するトークセッションが行われた。

(企画プロデュース:電通人事局・金原亜紀    記事編集:菅付事務所  構成協力:小林英治)

 

 

 

「人生を偶然で生きてきた」

セレンディピティとは、「ふとした偶然をきっかけにしたひらめきで幸運をつかみ取る能力」といわれる。トークを企画した江成氏によれば、近年の広告業界では、CMやキャンペーンなどでも最初から完成形をきっちり決めるのではなく、偶然性を許容して柔軟に対応しながら最終的な形を作っていく「メソッドニュートラル(メディアニュートラル)」なケースが主流になっているという。そこで、『BRUTUS』『Casa BRUTUS』『VOGUE JAPAN』『GQ』など数多くの雑誌の成長や立ち上げに関わってきた斎藤氏の、実は「人生を偶然で生きてきた」という話をヒントに、その経歴をうかがいながらセレンディピティの極意を引き出そうというのが今回のトークのテーマだ。

 

1955年生まれの斎藤氏は、生家が山形市で代々続く農家だった。幼い時から跡継ぎになるよう言われ続け、それが嫌で家を出るために猛勉強をして東京大学に入学したという。卒業後に一度は西武百貨店に就職するが、「給料が学生時代のバイト収入の半分だった」ため、それより割高だった出版社に再就職しようと、片っ端から試験を受けて平凡社に入社。嵐山光三郎氏が編集長だった雑誌『太陽』に配属されたが、扱っている内容には当初まったく興味がなかったという。『太陽』の編集スタイルは1人で特集丸ごと1冊を担当する形式で、斎藤氏が担当した盆栽特集では、当時は業界的にあり得なかった「盆栽に影をつけた撮影をした画期的な写真」を掲載した。

読者が求めているのは、「事実」ではなく「真実」だ

3年目で退職してフリーランスとなり友人と3人で会社をつくるが、しばらくして平凡出版(現マガジンハウス)に入社。配属された『平凡パンチ』は、「80年代当時、『週刊プレイボーイ』と大部数競争をしていた時代で、入った翌年の正月合併号は130万部を発行していた」という。事件記事からヌード担当、カルチャーまであらゆる仕事を経験する中で、「読者が求めているのは事実ではなく(物語化された)真実だ」と教えられ、「その時に初めて“読者とともに”という雑誌づくりについて考えはじめた」という。

その後に異動した『POPEYE』では隔週刊から週刊にすることを命じられ、毎号アニー・リーボヴィッツに表紙撮影を頼み誌面の構成も担当。しかし、1年ほどすると、「すでに10億円の赤字を出している」と告げられ、30代で窓際族になった。不遇ともいえるこの時期に、編集だけでなく広告から販売まで1人ですべて担当するムック本の仕事をする中で、「初めて雑誌のビジネス全体を学んだ」。この経験がその後の飛躍の土台となる。

「広告媒体として成功させない限り廃刊になる」

1996年、斎藤氏は「年間5億円の赤字を出していた」という『BRUTUS』の編集長に大抜擢される。ムック本を手がけた経験から、編集の内容を充実させるだけではなく、「ビジネスとして、広告媒体として成功させない限り廃刊になる」と認識し、まず人件費を減らして広告収入を上げた。そして最初の特集で当時日本でほとんど知られていなかった画家のフェルメールを取り上げて大ヒット。さらに衣食住の観点から、80年代のデザイナーズブランド、90年代のレストランやシェフのブランド化のあとは、すでにデザイナーズマンションが建ちはじめていた住宅のブランド化が起こると予測して、のちにシリーズ化される「有名建築家の作った集合住宅」の特集をヒットさせるなど名企画を連発していく。「(通常の)男性誌は裸をやらないと売れない。私はテーマはファッション、デザイン・建築、旅、食、車の5つと決めて、『FIGARO』のような女性誌を参考に、女性も買う男性誌をやろうと考えました」。狙いは当たり女性読者が急増し、部数も着実に伸びていった。

後半に続く) 
※Dentsu Design Talkは金曜更新です。