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「届く表現」の舞台裏No.14

大分・小鹿田焼 坂本工氏に聞く
300年続く陶芸の里のリアル

2017/04/24

「『届く表現』の舞台裏」では、各界の「成功している表現活動の推進者」にフォーカスします。今回は、小鹿田焼の今を代表する窯元当主のひとり、坂本工氏に創作に込めた思いを伺いました。

[小鹿田焼(おんたやき)とは]

18世紀初頭から大分県日田市の小鹿田で綿々と生産が続く陶器ブランド。一子相伝による徹底した家族生産の非拡大主義、全工程を貫く手作業、無記名作品主義などの際立つ特徴を持つ。昭和初期の柳宗悦らの民芸運動で全国的な注目を浴びる。1995年には国の重要無形文化財に登録され、2008年には「小鹿田焼の里」が国の重要文化的景観に選定された。
 
左は、次代当主となる予定の長男・創氏
坂本工氏。左は、次代当主となる予定の長男・創氏

小鹿田の陶器作りは、もしかしたら日本一原始的かもしれません。300年前にこの里で陶芸が始まって以来、ほとんど同じ製法なんです。この土地の土・水・天日、自然条件が製法の全てを決めます。そして徹底した手作業。組合10軒で力を合わせて近辺の山から土を掘ってくる。里を流れる川の水力を活用した木製の唐臼(からうす)で土を砕く。水槽の中で混ぜて上水を沈殿させて陶土を作る。主に蹴轆轤(けろくろ)(足で蹴って回すろくろ)で一つ一つ成形し、天日で干す。地元の日田杉を2年間乾燥させた薪(まき)を燃料に、窯で焼く。ずっとこの流れを変えずに続けてきました。

変えなかった、というより変えられなかったのが実情です。傾斜地の里の狭い土地では機械など入れる余地がない。外部から弟子を採らないのも、轆轤は増やせないし彼らを生活させる場所がないからです。原則長男だけが家業を継ぐ一子相伝のシステムも、食べていけないから、やむなくそうしたルールにしたにすぎない。丹念に手で練りつけて作るのも小鹿田の土の性質に基づいてのこと。弱い土なので破損率も高いんです。有田の土を混ぜたい、と何度思ったことか。だけどそれをやると、小鹿田が壊れてしまう。

大分県日田市の小鹿田

小鹿田の歴史は、まさに我慢と忍耐の歴史なんです。悪条件だから今日まで残っているのだと思います。たくさん作りたくても、作れなかった。拡大や近代化しようにも、できなかった。小鹿田ブランドというものがあるとするならば、里の悪条件がそれを成立させたのでしょう。

里の歴史において、柳宗悦、濱田庄司、河井寛次郎、といった方々は偉大な師匠です。彼らの民芸の思想と運動が小鹿田に光を与えてくれた。それまでは周囲と区別せず「日田もの」とくくっていた先人たちに「小鹿田焼」の自意識を与えてくださったのも彼らです。作品に銘を打たないのも、こうした先生方がそうしなかったのだからめっそうもない、との考え。「用の美」との言葉がありますが、われわれとしてはとにかく生活の中で使っていただきたい。何億年もかけてできた土から手作業で作ったんですから。

300年の歴史の中で最大の変化は、30~40年前に陶芸専業の里になったことかもしれません。それまでは、半農半陶でした。むしろ農業の方が比重が高かった時代もあったようです。この先また農業なども兼ねる時代がくるかもしれませんね。これまでがそうだったように、この先もきっと里と折り合いをつけて生活していくでしょう。

最近、国からいろいろ指定を受けたりメディアに取り上げられたりするのは、われわれとしては不思議な気分です。変わっていないんですから。もしかしたら、世間が変わり過ぎているのかもしれませんね。そちらから見れば、変わっていないことに価値があるように見えるのでしょうか。

自然のサイクルとはよくできたものです。例えば梅雨時は川の水量が増え、唐臼の勢いが増すので土は多く作れる。ところが天日が少ないから器の乾燥が追い付かなくて製品は増やせない。こうした自然のバランスに、人間が合わせていくしかないんです。

小鹿田焼の代表的な文様の「飛び鉋(かんな)」(左)と「打ち刷毛目(はけめ)」
小鹿田焼の代表的な文様の「飛び鉋(かんな)」(左)と「打ち刷毛目(はけめ)」

小鹿田の器は、日本一原始的に作られるものかもしれませんが、日本一健康的な器かもしれません。自然の原料とエネルギーを使い、あとは人間の手で完成されるものですから。健康的な器に、健康的な食べ物を盛り付けて食べる。使っていただく方にはそうして心も体も健康になっていただければいいな、と願っています。