電通を創った男たち #21

戦後日本にPRを本格導入した男

田中 寛次郎(1)

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    北野 邦彦

吉田秀雄が事業化した6つの活動方針―その1商業放送の設立

 

第2次大戦後、田中寛次郎がPRの導入と普及の上で果たした役割には非常に大きなものがあったが、今日、その名を広告史上、PR史上で思い起こす人は少ない。しかし、PRの普及が戦後の日本の広告界、産業界に与えた影響には極めて大きいものがあり、その基盤を創り上げた田中の業績は決して消えるものではない。PRが日本の土地にしっかりと根を張った21世紀の今日、田中が残した軌跡を、改めてたどってみたい。

日本のPR界のパイオニア・田中寛次郎

PRの普及こそが戦後の広告界の大きな柱の一つになると確信した電通第4代社長の吉田秀雄は、電通東京本社営業局外国部長兼総務局渉外部長の田中寛次郎にPR普及ための大作業を託し、田中も吉田の期待によく応えてPR導入に心血を注ぎ、戦後のわずか数年のうちに見事、大きな成果を実らせたのである。

敗戦の翌年、昭和21(1946)年2月、電通の第3代社長の上田碩三は、戦後の電通の進むべき道を「当面の活動方針」として全社員に示達した。日本が戦争に負けてわずか半年後、焦土の中で産業界、広告業界は疲弊しきっていたが、平和産業としての広告産業の発展を信じ、戦後経営活動の基本指針ともいうべき「当面の活動方針」をいち早く発表したのである。

その内容は、以下の6項目であった。

(1)商業放送(後の民間放送)の実施促進とそれに必要なあらゆる企画と準備

(2)広告・宣伝の構想、企画を拡大するパブリック・リレーションズ(PR)の導入とその普及

(3)広告合理化のために必要な調査部機能を拡充し、特に市場調査を励行する

(4)広告表現技術の水準向上をめざして、宣伝技術部、商業写真部を創設する

(5)事業局の活動面を広げ、屋外広告その他媒体の多角化を助成する

(6)傍系印刷会社の設立

この「当面の活動方針」は上田社長によって発表されたが、実際の起案は、当時常務取締役の吉田秀雄によるものである。

上田は日本電報通信社(電通)の常務取締役・通信部長や、電通と新聞聯合社の通信部門の合併によって設立された同盟通信社の常務理事・編集局長として長く編集畑にあったが、第2代社長・光永眞三が昭和20年7月に退任したことで電通に戻り、社長に就任する。しかし、就任後も広告業務に対しての関心は薄く、広告業としての電通の経営は吉田が取り仕切っていた。上田は昭和22年6月に、GHQの公職追放令の該当者となり社長を辞すことになる。

吉田は上田に代わって、43歳の若さで第4代社長に就任するが、経営者としての吉田の卓抜たる才能は、これら6項目にわたる活動方針をその後の数年間に全て事業化し、目標を達成してしまったことにある。

第1番目の商業放送の設立は以下の経緯をたどる。

敗戦後わずか1カ月、昭和20年9月25日、政府は日本放送協会によるラジオ放送に加え、広告を財源とする商業放送の開設を閣議了解した。これを受けて、逓信省の前身である逓信院総裁の松前重義は、東京商工経済会(現東京商工会議所)藤山一郎会頭、船田中理事長に新放送会社設立を勧奨した。船田はこの案件について、電通の上田碩三社長に相談したところ、上田は常務取締役の吉田秀雄を電通側の責任者に任命する。同年12月、船田が設立準備委員長、吉田が副委員長となり、「民衆放送株式会社」設立許可申請が逓信院に提出され、同時に東京商工経済会内に設立準備事務所が設置された。

しかしながら、逓信省(逓信院から改組)から提出された申請に対し、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ・SCAP)の民間通信局(CCS)はこれを時期尚早とし、昭和21年2月、申請を却下する。加えて、藤山も船田も公職追放令の該当者となったため、関係者の間での商業放送開局熱は急速に冷めて行く。

船田が退いた後、吉田が設立準備委員長を引き継ぎ、設立準備事務所も熱気の冷めた東京商工経済会から電通社内に移転する。しかし吉田は近い将来、商業放送開局の機運が再び戻ってくることを確信し、吉田の商業放送構想の良き理解者であった日本化薬社長の原安三郎とともに、じっくりと開局の準備を進めていった。

吉田の予期した通り、その機会はわずか1年8カ月後に巡ってくる。昭和22年10月、民間通信局(CCS)は政策を転換し、逓信省に対して事実上の認可となる商業放送開局の「示唆(サジェッション)」を与える。当時、GHQは日本国民に対し、占領軍のイメージを出来るだけ与えないよう、GHQの意向の表明も「命令」ではなく、「示唆」と表現されていた。

これを受け、「民衆放送」は設立の主体を電通とし、名称も「東京放送株式会社」に改め、昭和24年に再度設立申請書を提出する。また電通社内には「ラジオ広告研究会」が置かれ、民間放送開局のための研究を行い、来たるべき日に備えた。

昭和25年、電波法、電波監理委員会設置法、放送法の、いわゆる電波3法が成立し、民間放送開局のための法的基盤が確立する。

その結果、翌26年9月に、名古屋の中部日本放送、大阪の新日本放送(現毎日放送)が、11月には大阪の朝日放送が、12月にはラジオ東京(現東京放送)とラジオ九州(現RKB毎日放送)が、相次いで開局する。ラジオ東京は朝日新聞、毎日新聞、読売新聞各社と電通とがそれぞれ出願した開局申請を一本化したラジオ局であり、一本化の調整に手間取った結果、開局が年末にずれこんでしまったのである。

日本テレビの街頭テレビに見入る人々

2年後の昭和28年8月には、初の民放テレビ局が東京に開局する。正力松太郎による日本テレビ放送網(NTV)である。

NHKテレビの開局は同年2月であるから半年遅れの民放テレビの開局となるが、NTVは盛り場に街頭テレビを設置し、プロレスやプロボクシングの中継などで人々を引きつけ、民放テレビはたちまち強力な広告媒体に成長する。

翌29年には、ラジオ東京のテレビ部門となるラジオ東京テレビ(現東京放送)が開局し、ラジオとテレビを併せた本格的民間放送時代へと突入してゆく。

電通も相次ぐ民放局の開局に対応するため、昭和25年に東京本社と大阪支社、名古屋支社にラジオ広告部を設置するが、翌26年には、東京本社にラジオ局、大阪、名古屋、九州各支社にラジオ部を設置し、民放ラジオ局開局に対応させた。

さらに民放テレビ発足の昭和28年には、東京本社のラジオ局、大阪支社のラジオ部をラジオテレビ局に改組し、多くの民放局に資金、人材、技術の提供を行うことによって、民放界の発展のため惜しむことなくその努力を傾注していった。

 

(写真上)日本のPR界のパイオニア・田中寛次郎、(下)日本テレビの街頭テレビに見入る人々

(文中敬称略)

◎次回は2月3日に掲載します。

プロフィール

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    北野 邦彦

    1937年生まれ。早大第1商学部卒。63年電通入社。秘書室長、広報室長などを歴任。01年より帝京大文学部社会学科教授を務めた。著書に『日本の広報・PR100年』(共著/同文館)、『実践マーケティング・コミュニケーションズ』(共著/電通)など。

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