電通を創った男たち #23

戦後日本にPRを本格導入した男

田中 寛次郎(3)

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    北野 邦彦

田中寛次郎とPRの出会い

 

第2次大戦後の日本のPR史上、田中寛次郎の名前は刻銘に記されているが、田中も初めからPRの専門家として導入と普及に努めたわけではない。

吉田秀雄の命で田中がPRの研究を始めたのは、戦後間もない昭和22~23(1947~48)年頃と推測される。吉田は活動方針の第2番目に掲げた「PRの導入とその普及」を推進できる人物として、まず田中に白羽の矢をたてた。

昭和3年の同期入社だった吉田秀雄(前列中央)と田中寛次郎(前列左から2人目)
昭和3年の同期入社だった吉田秀雄(前列中央)と田中寛次郎(前列左から2人目)
 

田中は昭和3年、通信部の記者として電通入社。昭和11年の電聯合併で同盟通信に移籍するが、昭和12年の内閣情報部発足に伴い、情報官に就任する。その後結核にかかり東京世田谷の自宅で療養中のところ、昭和20年12月、出版事業の拡充を計画していた上田社長の求めに応じ、出版部長として電通に再入社する。しかし電通は、戦時中の出版物を理由に、GHQにより突如出版活動を制限され、出版部長であった田中も出版業務に専念できなくなり、昭和22年に総務部長に、次いで翌年10月に営業局外国部長兼総務局渉外部長に異動となる。

田中と吉田は電通が学卒を始めて公募した昭和3年の同期入社であり、その後も吉田とはじっこんの間柄にあった。しかも英語に堪能である。アメリカで生まれたばかりのPRを理解するには、何といっても英語力が必要とされる。またPRの重要な分野にパブリシティーやプレス対策があるが、電通や同盟通信の記者の経歴を持つ田中は、この点からも十分な資格要件を備えていた。この人物なら、PR分野の責任者として最適だと、吉田は判断したのであろう。

しかし、いかに英語に堪能な田中でさえ、吉田に命じられて初めて、戦後のアメリカに急速に広まったPRなる単語を知ったといわれる。それでは、英語力に秀でた田中ですら初めて耳にする「パブリック・リレーションズ」という英単語やPRの重要性に関する知識を、そもそも吉田はどの様にして戦後間もない時期に獲得し、「当面の活動方針」の第2番目に据えたのであろうか。

吉田がパブリック・リレーションズの重要性を認識した契機は、ジャパンタイムズ社長や共同通信社社長を歴任し、昭和42年に電通取締役にもなった福島慎太郎にあったと推測される。

福島は昭和5年に外務省に入省するが、昭和12年、米国民の反日感情を和らげるために、日本の状況を的確に対米宣伝する目的で、外務省から初のプレス・アタッシェとしてニューヨークに派遣される。その当時の様子を福島は「電通報」(1139号、昭和56年9月13日発行)に以下のように記している。

「私ははじめてアドバタイジング・エージェンシーのほかに、最近発達してきたものとしてパブリック・リレーション・カウンセルというものがあることを教えられた。その代表的なものとしてI・B・リー、カール・バイヤー、ジョージ・バーネスの3氏の名前があげられた ― 中略 ―私 は早速本省に電報で報告したところが、そこではたと困った。パブリック・リレ-ション・カウンセルをどう訳して良いか、適当な日本語が見つからない。今ではPRという重宝な言葉があるが、25年前のことだ。仕方がないからパブリック・リレーション・カウンセルと長たらしくかたかなで打電した。おそらく日本では、この言葉の使いはじめではなかろうか。外務省でも、おそらく電報ではわけがわからなかったのではないかと思う。」

福島慎太郎がパブリック・リレーション・カウンセルなる単語の存在を知ったのは昭和12年である。その後モックとラーソンの著作を坂部重義が翻訳した、『米国の言論指導と対外宣伝』が昭和18年に発行されるが、そのなかで坂部は、パブリック・リレーション・カウンセルを「渉外会社」と訳している。この訳書は、パブリック・リレーション・カウンセルを紹介した我が国初の文献である。つまり福島がアメリカで知ってから6年後に、「パブリック・リレーション」という単語が「渉外」の訳語でわが国に紹介されたことになる。

福島は外務省を経て、昭和22年には総理大臣秘書官、昭和23年には芦田内閣官房次長(現在の官房副長官)となり、昭和24年にはプロ野球の毎日オリオンズ社長、昭和31年にはジャパンタイムズ社長、昭和41年には共同通信社長に就任、昭和42年以降、10年以上、電通の大株主である共同通信を代表して電通の取締役に就任している。生前の吉田と福島はしばしば会することがあり、こうした機会を通して、吉田は福島から戦後のかなり早い時期にPRの重要性についての知識を得ていたのではないかと推測される。

吉田の命を受け、期待を担い、田中は全力で新着のアメリカの書籍や雑誌からPR関連の文献を探し出し、PRが何者であるかの理解に努めようとする。

敗戦後、一般の市民がアメリカの新着雑誌や新刊書を入手することに極めて困難な時期があった。外貨が乏しく、洋書の個人輸入は事実上不可能であり、洋書を通じて欧米の新知識の獲得を目指す人々は、GHQ民間情報教育局(CIE)が日比谷を始め、全国各地に開館したCIE図書館に赴くのが通例であった。

しかし電通は、洋書の入手に関してはかなり有利な立場にあった。戦後、電通は『タイム』と並びアメリカの有力ニュース週刊誌である『ニューズウイーク』の日本総代理店になった。電通銀座ビル内にニューズウイーク東京支局が置かれたお蔭で、アメリカの新規刊行物の入手は他の企業に比べ、はるかに容易な立場にあり、広告主や媒体に対してアメリカの新着刊行物を提供できることも大きな利点となっていた。

また、戦前のUP通信東京支局長として電通と深い関係にあり、戦後UP副社長・極東総支配人として再来日したマイケル・ボーンの存在も大きかった。

昭和23年3月1日号の「電通報」に掲載された「ニューズウイーク代理部」広告
昭和23年3月1日号の「電通報」に掲載された「ニューズウイーク代理部」広告

電通の通信部は、明治40年以降、UP通信と通信業務の提携関係にあったため、田中も昭和の初期、電通通信部の記者であった当時から、UP東京特派員のボーンと親交を結んでいた。したがってUPやニューズウイークのルートを使えば、一般的には困難であった洋書の入手も容易であったと考えられる。

電通はこうして集められた海外からの書籍や雑誌を社内に留め置くことなく、企業人や研究者、学生等に広く利用してもらうため、昭和26年9月、西銀座にあった「広告図書室」を一般に開放する。この図書室は電通の出版物を始め、輸入洋書や輸入雑誌、広告関係書などが開架式の本棚に並べられ、利用者の便を図り好評を博し、その流れは現在も汐留の電通ビルの一角に開館している「アド・ミュージアム」の図書室につながっている。

(文中敬称略)

※次回は2月17日に掲載します。

プロフィール

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    北野 邦彦

    1937年生まれ。早大第1商学部卒。63年電通入社。秘書室長、広報室長などを歴任。01年より帝京大文学部社会学科教授を務めた。著書に『日本の広報・PR100年』(共著/同文館)、『実践マーケティング・コミュニケーションズ』(共著/電通)など。

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