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Dentsu Design TalkNo.17

電子書籍『物語と格闘せよ!』

大友流、演出の極意(3)

2014/02/14

株式会社ブックウォーカーが展開するコンパクトな電子書籍専用レーベル【カドカワ・ミニッツブック】か ら、「DENTSU DESIGN TALK」シリーズの第二弾が配信されました。第二弾は、NHK時代に「ハゲタカ」や「龍馬伝」でブームを巻き起こし、独立後の初の映画「るろうに剣心」 でも注目された大友啓史氏と、その大友氏が注目する電通・コミュニケーション・デザイン・センターの高崎卓馬氏による『物語と格闘せよ! DENTSU DESIGN TALK』です。働くとは、物作りとは、何か?ふたりの熱いトークを少しご紹介致します。

<「テレビドラマはラジオドラマ」のルールを疑う>

 

高崎:僕も映画をやったときがあって、そのときに役者さんに対してCMの作り方は全然通用しなかったという経験があります。主には役をつくるための環境づくりをなかなか僕たちの現場はしてないという事が原因だと思うのですが。そのときの悪戦苦闘した半年のおかげでCMと映画の違いは僕も分かっているつもりなんですが、ドラマと映画の一番の違いはなんでしょうか?

 

大友:深くて難しい質問がさりげなくきますね(笑)。監督業という仕事でいうと、基本的にやっていることは本当にびっくりするくらい一緒なんです。ただ、よく言われるけど映画は大画面です。「映像の表面張力」という言葉を使うと、テレビの小さい画面だと表面張力が弱くてもいいんですけど、大画面はディテールも含めて画面の隅々まで意識が届いてないといけないので、映像としての強さや保つ時間、緊張感の強度が試されますね。それは芝居に関しても同じで、それは見られる環境とも大きく関係してきます。

テレビは未だいわゆる「茶の間で見る」という感覚ですからね、こっちがすごく頑張って作っても、所詮「ながら見」されてしまうというか、日常の中でザッピングするような感覚で見られるというか。

「テレビドラマはラジオドラマ」という考え方がありますよね。つまりお皿を洗ったり家事をしながら見るから、耳でちゃんと説明してわかるものにしないといけないという神話。テレビドラマはラジオドラマだと思って作らなければいけない、ということですよね。そう考えると、せんじ詰めればセリフだけ聞かせていけばいいとか、音楽だけ聞かせていけばいいということになってしまう。映像屋としてはそれは淋しいですよね。

ドラマ「ハゲタカ」第1話では、蝉の声を強く出してセリフと同レベルで出していくとか、音の部分でテレビ的なセオリーを外して色々試してみた。そうすると放送の伝送形態でどうしてもレンジが圧縮されちゃうから低音も圧縮されて持ち上がるし、高い音も叩かれちゃうから音のレンジが狭くなって、結果的にこっちが仕込んでいる細かい音が潰されてセリフが聞こえにくくなってしまう。それで、散々苦情の電話を頂きました。「セリフが聞こえない」「音楽や蝉の声が大きくて集中できない」っていう電話だったんですけどね。

僕はそこで、放送は2月でしたがなんとか劇中の真夏の暑さをライブ感として茶の間に伝えられないかとか、ドラマの世界に視聴者が入り込むような、その場にいるような臨場感をどうやって音で表現するのかという実験を意識していたんですね。「テレビドラマはラジオドラマ」という考えで、セリフですべてを表現しようとすると思ってずっとやっていたら、ただただセリフをクリアに聞かせて、バランスよく音楽をつければいいだけだから、なんていうのかな、「考える音響効果」が絶対育たないでしょう。セリフと音楽を立てるなら1年半経てば今の若い子なら簡単に覚えちゃいますよ。でも音にはもっと色々なものがあり、どういう音をどういう考え方でつけるかで本来は「効果マン」の思想が問われるわけだから。そういった仕事ができないとなると、テレビの世界での音の表現・演出がどんどん貧しくなっていってしまう。

僕は、テレビドラマに関わる仕事は一生かけるべき仕事、覚えるべきこと・学ぶべきことは無限にある、ちゃんと職業人としての「ステップが用意されている」仕事にならなければいけないと思っていて。で、どこかでテレビドラマはラジオドラマでなく、映画に近づかなきゃいけないと思い始めていたんですね。そういった考えは、30から32歳のときに局内の留学制度を利用してハリウッドに行った経験に根差したものなのかもしれません。脚本のクラスでは、マーティン・スコセッシの共同脚本家のマーディック・マーティンのクラスで、落ちこぼれになりながら、泣きながら英語で脚本書いていましたからね(笑)。

 

高崎:ハリウッドに行ったのはそういう理由からだったんですね。

 

大友:いや、別に深く考えて行ったわけじゃなくて(笑)、「俺、このままでいいのか」みたいなモラトリアム意識の延長線上だったんですけどね。まあそこで、みんな脚本書いた後にマーディック・マーティンが「おまえら理想的な脚本がなんだかわかってないぞ」みたいなこと言って、それは「無声映画だ」と言うんです。

「映画でやっているんなら映像で語れなきゃダメなんだ。セリフでくっちゃべって説明しているようなものはダメだ。極端に言うと映像と音楽だけで人の心の細かいディテールまで届くものが理想だ」と言われた。まあ向こうに行ったばかりで「ハリウッドはとにかく凄い」って頭があるから、なんでも都合よく拡大解釈する時期だったんで、「あ、やっぱりビジュアル表現として映画を育ててきた人たちには凄いプライドがあるんだな」なんて妙に感じ入ったりして(笑)。それに対してこっちは映像をやっているのに「ラジオドラマだ」っていうのはどういう考え方でそれを解釈すればいいんだ? と思ったりしたんですね。

それで日本に帰ってきてから隙をみては映像と音だけで表現してみようと虎視眈々と狙っていて。朝ドラで7分くらいの無音声のシーンを作って、そこに古謝美佐子さんの「童神」の歌を延々と流してみたりしていましたね。すると翌朝、「あの曲はなんだ?」とNHKの交換電話がひっきりなしに鳴るわけですよね。「あ、そうか、エモーションがあれば音楽と映像だけでも、それはそれでお茶の間に届くんだな」って、そう実感したりして。だから映像と音楽だけが一番強いというのはあながち嘘でもないんですね。

そういうことをテレビの世界で一つ一つ試しながらやってきた身からいうと、映画館で自分の表現しようと思っている音の一音一音が、ながらではなく暗闇の中で浴びるように集中して、しかも最後まで見るつもりでお客さんが来てくれるのは、映像の作り手として純粋に幸せな経験だと思います。

 

高崎:ドラマを作っていたときは、やっぱりチャンネルを変えられないようにする意識はあったんですか?

 

大友:それはすごくありました。色々なタイプがいると思いますが、僕は一瞬たりとも目を逸らさずに見ていただけるかを、物語の層と、映像の層と、音の層と、演技の層、エンターテイメント性とかハプニングも放り込んでみるとかも含めて、いくつもの層で考えて作っているんですね。でもそういうこともやっぱり、今の環境で活きている気がします。

やっぱり僕は、監督業っていうのは見てくれる人に対するサービス業だと確信していて。『七人の侍』だったと思いますけど、確か黒沢明監督が「この映画は徹底的にサービスするんだ、客にお腹いっぱい食べてもらいたい」というようなことを言っていた気がしますが、僕も今のところ、そういう感覚でものを作っていきたい。

日本の根底にある美意識って、「侘び」「寂び」じゃないけど、シンプルに削いでいく方向に本質があると思うんですね。引き算の思想で、逆に大事なものだけを浮き立たせていく、それが意外と主流なのかなと思います。

でもこれだけ訳の分からない時代になってきて、映像文化が他のコンテンツや他の国のものとか色々なものと張り合っていく時に、ある種の強度を支えるのは過剰なまでのものであったりするんじゃないかと思っているところがあって。個人的に僕は「チャンプルー・ムービーを創るんだ」なんて、スタッフにも言ってたりするんですけどね。まあそういうスタンスを『るろうに剣心』では試してみています。

 

<自分の中にいるお客さんの目線>

 

高崎:『るろうに剣心』を観て思ったのは、エンターテイメントとして最初から最後まで面白くて楽しい乗り物に乗ったなという感じと、それぞれリアリティのある人間がうごめいている良い世界の中に入り込んだ感じが両方したことです。

カメラマンの石坂拓郎くんが友人なんですけど、彼曰く、大友さんは現場で「カメラ頑張れ!」とかインカムつけてずっと喋っていて、大友さんのブースが一番離れていて観客みたいだという話を聞いたことがあります。私も大友さんの身体の中にはお客さんがいるんじゃないかと感じているんですが、その「人が見ている感覚」はドラマの経験が元にあるんですか?

 

大友:やっぱり怖いんですよね、きっと。一人の思い込みだけで作っていっているんじゃないかと。他者に届くか届かないかという論点は、創るための一つ一つのステップに既に準備段階からずーっと内在しているんですよね。脚本を作ってスタッフに渡すときも、僕にとっては最初のお客さんのような意識ですから。つまりまずは彼らが面白がってくれるかどうか。そこでは「まずお客さんなんだから、君たちちゃんと感想を言ってね」と。

逆にここで感想を言えないスタッフはダメですね、その人たちは既にその時点で僕に隷属し始めている。そうじゃなくてその前に一人の作り手として、しっかり感想があって欲しくて。撮影初日もそうですよね。初日終わった時に「どうだった? これで俺達はイケてるのか?」と。そのイケてるかイケてないかという基準は当然一人一人違うはずで、僕はイケるところまで行きたい底なしの果てしない欲望があるんですけど、そこに唯一ある制限は締め切りです。ベストを求めてやり続けていくんですけど、どこかで自分の中のお客さんに一人一人試されていくわけですよね。「自分がお客さんになってこの物語、このキャラクター、このアクションを観た時にどう思う? 嘘だと思わないか? 満足できるのか」という自問自答と言うか。作り手の立場に立ってしまうと、楽したいとか、もう終わりたいと思った瞬間に「OK」になっちゃう。

でもね、一方で言うとお客さんには関係ないんですよね、作り手の論理なんてね。自分が『るろうに剣心』にまったく関係ない人間で、ふっと劇場で観た時に、全く興味ない僕が目を留めて「すごい!」と思えるかどうかが実は大事だと思うんです。単純に一番人の目を引くものは、好きとか嫌いとかでなくて「すごいもの」な気がするんですね。「そのすごいものに辿り着くためにどうすればいいですか?」というのは、監督のわがままで言っちゃうと宇宙の果てまで行っちゃうんだけど(笑)、お客さんの目線になると「すごいもの」というレベルの欲求と、一方で客としての「そこまでやらなくていいよ」ということの感覚が、獰猛な監督の欲望を抑えてくれるときもある。だから常にそこのところの攻防というか、やっぱりスタッフも監督に隷属するんじゃなくて、時にはケツ叩いてくれたり、そこまでやらなくて大丈夫ですって言ってくれる人たちでいてほしいし、そういう人との共同作業でしか、最後まで辿り着く形にはならないんですね。

 

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