電通を創った男たち #24

戦後日本にPRを本格導入した男

田中 寛次郎(4)

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    北野 邦彦

電通を救ったボーンUP通信社副社長と寛次郎

 

敗戦の翌年の昭和21(1946)年11月に、復員学徒8名が電通に入社したが、その中の一人である田実博(後の大阪支社マーケティング局長)は、田中との出会いを自身の回想録の中で次のように記している。

「昭和24年の始め頃、私は(電通の)広告図書室で外国部長の田中寛次郎さんと度々お会いしていた。田中さんは『吉田社長にパブリック・リレーションズを研究しろと言われたよ』と言っていた。広告図書室長は大岩誠という人で、もと京大のフランス文学の助教授とのことだった。この人も吉田社長からPRの研究を命じられていたらしい。

当時、PRの研究資料は(アメリカの)プリンターズ・インク誌しかなかったので、田中さん、大岩さんと私はその中からPR関係の記事を拾っていた。パブリック・リレーションズをどう日本語に訳したらよいかについて、3人で話し合ったことがあったが、大変難しく、日本語訳は無理という結論になった。

この頃、私は日比谷のCIE図書館で1冊のPRの本を発見した。その内容の一部を紹介したのが、電通報の昭和24年4月28日号の展望欄に掲載された『パブリック・リレーションズとは』と題する一文である。なお、原書の書名を私は忘れてしまった。」

田中がPRの主要参考資料としたアメリカの文献が2点確認されている。その一つは、アメリカの広告専門誌『Printers’Ink』である。中でも1948年7月30日号の同誌の15ページにわたるPR特集号には、広告主、広告会社、販売店、株主などに対してPRはいかにあるべきかを説いた記事が満載されており、愛読していた田中にとって、絶好の特集となったに違いない。

もう1点は、『Blueprint For Public Relations』(Dwight Hills Plackard and Clifton Blackmon,McGraw-Hill,1947)である。田中は昭和23年頃、電通の渉外部長として、GHQに足しげく通っていた。田中が主に訪問した部署は民政局であった。民政局は占領政策を遂行するための最重要部署で、大きな権限を持っていた。

GHQ民政局次長 チャールズ・ケーディス

そこの次長であるチャールズ・ケーディスは田中とウマが合い、田中は彼の元をしばしば訪れていた。田中がPRの研究をしていることを聞かされたケーディスは、アメリカで刊行されたばかりの上掲書を貸してくれた。GHQでのケーディスの肩書は陸軍大佐であったが、本業はハーバード大学法科大学院を卒業した弁護士であり、PRには門外漢なので、この本を参考にしたらよいだろうと貸してくれたのだという。

ところで田中は、なぜGHQ民政局に足しげく通わなければならなかったのか。田中が英語に堪能であったことが、その第一の理由であることは明らかである。しかし、理由はそれだけではなかった。

当時の電通には多くの公職追放令該当者が在籍していた。そもそも敗戦時に電通の第3代社長であった上田碩三自身、戦時中、国策通信社であった同盟通信社編集局長の座にあったことを理由に、昭和22年5月に公職追放となり、電通社長を辞任せざるを得なくなる。上田に代わって同年6月、常務取締役から第4代社長に就任したのが吉田秀雄である。

当時の電通では、「満州帰り」と言われる南満州鉄道(満鉄)や満州国政府、満州の新聞や放送局に勤めていた人たちが数多く採用されていた。満州国の広報の元締めである国務院総務庁弘報処長であった市川敏(東京本社総務局長、専務取締役)、満鉄弘報課長、満州日々新聞社長、満州日報理事長であった松本豊三(秘書役、大阪支社ラジオテレビ局長)、満州日報編集局長であった森崎実(東京本社開発局長、ビデオリサーチ社長)、満州日報業務局長であった高橋渡(東京本社営業局長、副社長)、満鉄文書課長であった高橋威夫(常務取締役))、満鉄錦州鉄道局長であった古賀叶(東京本社ラジオテレビ局長、常務取締役、JIMA電通社長)、満州放送総局副局長であった金沢覚太郎(東京本社ラジオテレビ局長、ラジオ東京編成局長)、満鉄本社旅客課長であった小谷重一(東京本社営業局外国部長、PR部長、米州総局長、国際局長、JIMA電通専務取締役)などなど、「満州帰り」の人材層は極めて厚かった。

「満州帰り」以外にも、中国本土やその他の外地からの引揚者や軍人関係者を、吉田は積極的に採用した。朝日新聞東亜部次長から中国大陸に渡り、上海の日本語新聞、大陸新報専務取締役となった森山喬(秘書役、東京本社経理局長、ラジオテレビ局長、常務取締役)、陸軍憲兵大佐・東京憲兵隊特高課長であった塚本誠(取締役)もその人たちである。

それらの人たちも公職追放令の対象者となる例が多く、吉田はこうした人たちの状況を把握するためにもGHQからの情報入手に腐心していたので、その大役を田中渉外部長に託したのであった。

会社制限令によって、電通自体が戦時中に出版した書籍の内容を問われ活動制限会社とされたことも、GHQとの折衝を密にしなければならない理由となった。戦時中に電通が『満州建国読本』『独逸大観』『伊太利大観』『ナチス叢書』などを出版したというのが、活動制限会社に指定された理由である。

さらには、銀座で焼け残った数少ない建物である電通ビルがGHQの接収対象とされる危機に陥り、この点からも、GHQとの渉外業務は極めて重要であった。特派員として広く海外を知り、英語に堪能な田中が渉外部長に任ぜられ、GHQとの渉外業務に当ったのは、まさに打って付けの人事であったといえる。その田中やUP副社長のマイルス・ボーンのGHQへの働き掛けが実り、電通ビルはかろうじて接収対象から外される。

日本テレビの街頭テレビに見入る人々

昭和11年6月の「電聯合併」までは、電通は広告会社であると共に、通信社でもあった。通信の分野では日露戦争の終了後の明治40年以降、アメリカのUP通信社と通信協定を結び、深い提携関係にあった。UP東京支局は、電通通信部と同じ電通銀座ビルの3階に置かれていた。戦後UPの副社長、極東支配人として来日するマイルス・ボーンは、昭和7年、東京支局長として赴任し、知日派ジャーナリストとして大いに活躍したが、電通の通信部門に所属していた上田や田中とは、当時から親交を深めていた。

戦後、ボーンが極東総支配人として東京に再赴任するや、上田、田中との旧交を温め、GHQとの橋渡しや電通ビルを接収対象から外すことなど、電通のために大いに尽力する。敗戦後の荒廃した経済状況の中で、広告活動が果たすことのできる余地は小さく、電通も広告業としての経営的困難さに直面していた。もしも電通ビルが占領軍に接収され、どこかの貸ビルで営業活動を続けなければならなかったとしたら、経営も極めて困難な状況に陥っていたであろうことは否めない。電通はボーンのGHQに対する折衝力により、ビル接収という窮地を脱することができたのである。

昭和24年1月、上田はボーンと船で千葉県浦安沖のカモ猟に出た。その時突風にあおられた乗船が転覆し2人は命を落とす。電通はこの上田とボーンの不慮の死を悼み、2月15日付『社報電通人』で、追悼特集号を編集するが、その中で田中は「かつての電通通信部が国際ニュース界に不敗の態勢を整えたのは、主として電通とUPとの完全提携によるもので、その完全提携は、ボーン氏と上田さんの親交をかけはしとして発足し持続した」とボーンの功績を讃えている。

ボーンと上田の功績を長く記憶に留めるために昭和25年、「ボーン国際記者賞」が創設された。同賞は昭和53年、「ボーン上田記念国際記者賞」と改称されたが、今日に至るまで国際的に活躍した数多くのマスコミ関係者の顕彰を続けている。

(写真上)『Printers’Ink』のPR特集号目次、(中)GHQ民政局次長 チャールズ・ケーディス
(下)昭和5年の富士登山でボーンUP通信社副社長(左)と上田電通社長

(文中敬称略)

◎次回は2月24日に掲載します。

プロフィール

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    北野 邦彦

    1937年生まれ。早大第1商学部卒。63年電通入社。秘書室長、広報室長などを歴任。01年より帝京大文学部社会学科教授を務めた。著書に『日本の広報・PR100年』(共著/同文館)、『実践マーケティング・コミュニケーションズ』(共著/電通)など。

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