電通を創った男たち #25

戦後日本にPRを本格導入した男

田中 寛次郎(5)

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    北野 邦彦

PRを知らねば経営者の資格なし

 

田中寛次郎は、GHQ民政局次長のケーディスから借りた『Blueprint For Public Relations 』を使い、電通社内で輪読勉強会を開催する。社内の英語の堪能な社員数名を集め、各自の分担を決めて翻訳作業と発表を行わせた。その一人で、当時営業局宣伝企画部の若手部員であった増山太郎(後に国際クリエーティブ局次長)は、この勉強会について、「研究メンバーは社命で召集され、田中の指導の下、業務終了後毎週2回、約半年間、『Blueprint』の各章を割り振っての、当番制の翻訳勉強会を続けた。初任給3200円の時代に、毎回200円という、当時としては高額の翻訳手当と、滅多に口にすることが出来なかったケーキが出され、それがバネとなって、夜遅くまで翻訳勉強会を続けた。田中さんはPRの役割として、労使関係改善の役割を重視し、翻訳もヒューマン・リレーションズあたりから入っていった」と筆者に述べている。戦後、官公庁にも民間企業にも激しい労働運動の嵐が吹き荒れ、企業も国も地方自治体も、組合対策に苦慮した時代である。田中はPRの導入こそが、労使関係改善のための有力な打開策になると考えていたのであろう。

戦時中、東京憲兵隊特高課長であった塚本誠は、電通に入社後、東京本社第2連絡局長、連絡総務を経て取締役となるが、この翻訳勉強会に参加した当時の思い出を、自著の『或る情報将校の記録』(中央公論事業出版)の中で次のように記している。

「入社当時、電通は他にさきがけてアメリカの広告界の研究に格別の意を用い、特にパブリック・リレーションズ(PR)の研究や手法の導入に努力していた。その中心になったのは、役員待遇の田中寛次郎さんで、その指導のもとにPRの研究会なども夜間開かれており、私もメンバーに加えてもらった。

この研究会で私が習得した『パブリック・リレーションズ』という言葉の意味は、『企業体、労働組合、政府などが自らを環境に順応させるため、顧客、従業員、株主、および一般社会との間に健全で建設的な関係を作りあげるための活動』ということである。『プロパガンダ』という言葉に対する抵抗もあって、戦後アメリカに生まれた言葉だが、それは単なる広告宣伝とは区別さるべきであるということである。

『パブリック・リレーションズ』という言葉の持つ意味は、私の琴線に気持ち良く触れると同時に、『寛ちゃん』の愛称で呼ばれる田中寛次郎さんの人柄、その叡智と情熱にひきこまれて、PRの学習は私にとって楽しいものとなった」。

こうして、『Blueprint』の翻訳作業は無事完了する。田中はこの要約を『電通PRパンフレット―第2集』として、「パブリック・リレーションズの型―PRを知らねば経営者の資格なし」という刺激的なタイトルを付けて制作し、電通社員、広告主、媒体社に広く配布し、PRの啓蒙を図った。

田中は、こうした研究会の成果を下敷きにして、PRの導入と普及にまい進する。昭和24年7月、銀座の電通ビルを会場に、電通と日本広告会の共催による、第1回「広告講習会」が開催された。この広告講習会は、平和な時代の到来によって、広告の重要性をより広く、より深く探究しようというものであり、開会の辞は吉田秀雄によって行われた。

この広告講習会で、田中は「パブリック・リレーションズについて」と題し、新時代の広告活動の中でPRの果たす役割の重要性を講じている。その内容は、開催から半世紀以上を経た今日でも見事に通用するものであり、その一部を転載する。

「すべての企業体は、一般社会の認容がなければ存立し得ない。すなわち一般社会がその企業が存在することが望ましいと考える時、その企業ははじめて存在し得る。企業が社会の認容を得るためには、社会の利益福祉の線に沿って経営されなければならない。これが根本の問題である。しかしそのように経営されていることは、企業体自身が社会一般に知らせなければ分からない。

そこで第2の問題として、知らせるという仕事が必要である。根本の問題と第2の問題とが実行されて、はじめてその企業体は社会の認容を得、存在が可能となる。その全過程がPRであるというのである」。

田中によるこの講義は、わが国で開催された、一般を対象としたPR関連講座の第1号である。この第1回広告講習会では、金沢覚太郎(電通ラジオテレビ局長、テレビ東京編成局長)が「商業放送の企業性」のタイトルで講義しており、当時の電通がPRと民間放送開局を、どれほど強く関係者に訴えたかったかが伝わってくる。この第1回広告講習会の講義録は、同年10月に電通から『昭和24年広告研究』のタイトルで出版された。

また、広告講習会は後に電通夏期広告大学、次いで電通夏期大学と名称を変更し、昭和62年9月に開催の「電通コミュニケーション・ワークショップ」に引き継がれるが、毎夏、広告関係者に国内外の広告事情に関する最先端の話題を提供し、大きな関心を広告関係者から集めた。

電通では、PRの導入・普及を図るため、広告主、媒体を始めとした関係各所に『電通PRパンフレット』と題した小冊子のシリーズを発行、無料配布したが、その第1集は「第1回広告講習会」における田中の講演をその内容としている。

GHQ民政局次長 チャールズ・ケーディス

また、GHQ民間情報教育局(CIE)が昭和24年7月から10月にかけて、毎週、13回にわたり内幸町の東京放送会館で開催した「広報講習会」にも、電通は全面的な協力を惜しまなかった。この広報講習会は、わが国で開催された初めての広報・PRに関する講習会であり、政府機関や自治体、主要団体、広告会社などの広報関係の参加者にアメリカ流の広報・PRの最新知識を体系的に講義する内容で、講師はCIEの幹部や日本政府関係者が務めた。

この広報講習会の第9回「団体の広報」は、司会、電通外国部長・青木眞となっている。しかし、当時の外国部長は田中寛次郎であり、青木は大阪支社外国課長であった。本来なら司会をするべきところ、結核を患っていた田中の体調が思わしくなく、青木に変わったのではないかと思われる。

この講習会の内容は『広報の原理と実際』の題名で、昭和26年に電通から出版され、広報・PRを理解するための基本書として幅広く活用された。

(写真上)『Blueprint For Public Relations』復刻版の表紙
(下)GHQ民間情報教育局が「広報講習会」を開催した東京放送会館

(文中敬称略)

◎次回は3月1日に掲載します。

プロフィール

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    北野 邦彦

    1937年生まれ。早大第1商学部卒。63年電通入社。秘書室長、広報室長などを歴任。01年より帝京大文学部社会学科教授を務めた。著書に『日本の広報・PR100年』(共著/同文館)、『実践マーケティング・コミュニケーションズ』(共著/電通)など。

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