電通を創った男たち #28

戦後日本にPRを本格導入した男

田中 寛次郎(8)

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    北野 邦彦

PRにささげた生涯

 

新聞と広告

昭和24(1949)年11月、わが国の企業としては初めてPR部が電通に発足する。初代PR部長は、「大陸帰り」の森山喬が務めた。森山は朝日新聞東亜部次長から、中国大陸に渡り上海在住の邦人向け日本語新聞、『大陸新報』の専務理事を経て電通に入社する。

同年12月23日の電通発行の『新聞と広告』紙は次のごとく述べている。

「電通PR部活躍―日本にPR活動を普及するために鋭意研究を進めていた電通では、去る11月末、PR部を創設。森山喬君(元大陸新報専務理事、現電通社長室付)を部長として実践活動に入ったが、予想外の反響あり、各方面からの照会、相談が殺到し、係員が応接にいとまない。すでに日鉄、日窒、昭和電工など基礎産業方面では、これが具体活動に入るべく、電通と密接な連絡の上、準備を進めている。因みに電通においては、PRの理論研究は田中寛次郎君(社長室付)が担当している。」

この時設置されたPR部は、当時、営業局と事業局の2局体制であった電通の組織のどちらにも属さない社長直轄の独立セクションであった。

田中は昭和25年、総務局渉外部長兼任のまま監査役となり企画室勤務となる。企画室は社長直轄の部署で、役員会の次に位置付けられた重要ポジションであり、森山喬(元大陸新報専務理事)、松本豊三(元満州日報理事長)、森崎実(元満州日報編集局長)らの錚々たる「満州帰り」、「大陸帰り」のマスコミ人たちが蝟集する部門でもあった。この企画部で田中は病を押して、PRの理論研究を行う。

総本社機構として、森山を部長にPR部が組織された約1年後の昭和26年1月、東京本社営業局に営業部門としてのPR部が設置され、小谷重一が外国部長兼任でPR部長に就任する。一方、田中は同年12月、監査役を退任して秘書役となり、ふたたび療養生活に入る。

昭和28年6月20日の『電通社報』は、吉田秀雄をはじめ、昭和3年に大学公募第1号の新入社員となった人々による25周年記念座談会を、11ページにわたり特集している。田中は吉田と同期入社なので、本来であれば座談会に出席するはずであったろうが、療養生活のためやむなく『電通社報』の同号に寄稿するにとどまっている。

「(広告業の地位向上のために)電通が広告代理業の第一人者としての責任において、多大の犠牲と努力を払って果たした役割は何より大きかったと言える。具体的な例を挙げれば(イ)単なる広告のスペース・ブローカーから広告の専門的知識、技術、資料の提供者への発展。(ロ)業態の合理化、就中料金制度の合理化。(ハ)市場調査、市場分析、広告効果測定を含む調査機関の設立。(ニ)広告を販売部門の一手段から企業経営の中枢的機能まで生長させたPR活動の普及。(ホ)ラジオ・テレビ広告の発足に対する準備。(ヘ)ABC(新聞雑誌発行部数公査機関)の提唱等々。どうも話が理屈っぽくなってしまった。ではこの辺で……」

この一文は、田中が電通関係の文書に残した最後の記録である。田中はまさに「この辺で……」と、自らの最後を暗示するかのように、この半年後の昭和29年1月、彼岸へと旅立っていったのである。

民放開局とPR導入に関して電通がどれほどのエネルギーを注いだかについて、吉田は『電通社報』(昭和27年4月25日)の紙面で次のように語っている。

「商業放送計画ならびにその事業に払った努力、犠牲については、いまさら喋々の必要はあるまい。PR紹介のために費やした電通の英知と努力についても誰人もこれを認めないわけにいくまい。しかもこのふたつが、戦後の日本広告界に投げた波紋と効果は、本質的なものであったことを、何人といえども否定できまい。その他の諸事業にしても、ただたんに電通の利益のためにのみ、計画されているものかどうか、業界有識の人々がすでに十分判断してくれてもいる。その行動の理想と活動の成果がつぎつぎに証明してくれている」

しかし、吉田がPRの重要性をどれほど力説しても、田中の人柄と卓越した語学力、それにPRの導入と普及に向けて払った努力、PRの知識の獲得に向けてのほとばしる情熱がなかったならば、わが国のPR業界、広告業界、産業界にこれほどの短期間でPRの普及が図られたとは到底考えられない。

創立50周年記念日に銀座本社ビルの屋上で吉田社長を囲んで。

田中と同期入社で、後に第5代社長となる日比野恒次の田中寛次郎評で、最後を締めくくりたい。

「彼はどっちかと言うと秀才型で都会育ちのほっそりとした、なかなか神経質そうなタイプにも見えたが、神経は太く何時も朗らかにしていたものだ。はじめは病気になってからも変わらず好きな酒は止めずバーなど呑み廻っていたらしいが、(吉田)社長は随分、田中さんの体を心配しておられて注意されていた。考えてみると、田中さんは自分の体をよく知っていて少なく共、逆療法により人生といったものを達観していられたんじゃないかと思う。一切の不平、グチを言わず、よくもまあ、あれだけの仕事をし、人と交際しておられたものと今でも感心している。」(『電通社報』昭和29年1月20日)

昭和29年1月5日、48歳の若さで、PR史上に数々の功績を残し、電通から、PRの世界から、そしてこの地上から田中寛次郎は去って行った。第2次大戦後のパブリック・リレーションズの導入において果たした田中寛次郎の働きは、疑いもなく極めて大きなものであった。

<完>

(写真上)PR部創設を伝える『新聞と広告』
(下)創立50周年記念日に銀座本社ビルの屋上で吉田社長を囲んで。後列右から2人目が田中寛次郎、前列左端が日比野5代社長

(文中敬称略)

プロフィール

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    北野 邦彦

    1937年生まれ。早大第1商学部卒。63年電通入社。秘書室長、広報室長などを歴任。01年より帝京大文学部社会学科教授を務めた。著書に『日本の広報・PR100年』(共著/同文館)、『実践マーケティング・コミュニケーションズ』(共著/電通)など。

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